ケムリ研究室no.3 舞台『眠くなっちゃった』

ケムリ研究室no.3 舞台『眠くなっちゃった』(ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)作・演出。以下、本作)は、劇中に登場するサーカスと同じように、"作り物"だと知っているのに目の前で"演じられて"いるモノに本気で没頭しながらも、劇場を出た後には「アレは一体何だったのだろう?夢でも見ていたのか?」とキツネにつままれたような感覚に陥る芝居だった。
それは、本作パンフレットでKERA自身が『今回は、具体性のある物語を書いているようで、「具体性なんかないんだよ」ということをチラチラと見せているつもり』と発言していることからもわかるとおり、だから、本作を通したテーマを求めるということは、もしかしたら野暮なのかもしれない。

ということで、本作については、パンフレットのあらすじ冒頭の「設定」あたりだけを引用しておく。

何十年か、百数十年か先の、どこかの国のお話-。
地球の人口は以前の3割ほどに減少。繰り返された極度の寒暖により、植物はほとんどが死滅。生き残った動物たちは人間の食料とされ、今や目にすることは珍しい。
残ったのは昆虫、限られた鳥類、爬虫類、深海魚の変種の貝。
極端な気候の中で生活するため、都市では巨大な冷暖房装置が稼働。人々が暮らす建物の中にはダクトが張り巡らされている。
そして人々は、中央管理局に監視されながら日々を暮らしていた。

本作パンフレットより

かなり早い段階でKERA自身が「近未来のSF」と明かしてきた本作は、上記「設定」からもわかるとおり、「独裁システムの管理・監視下のもと、それを疑わぬレベルまで洗脳されきった民衆が生きる社会」という、ある種定型化されたディストピア物語を装って展開される。
「装って」と書いたのは、「定型」として十分に理解できる物語でありながら、しかし、根底には「定型」とは真逆の思想が流れているからだ。

「定型」は、「独裁システムによる管理・監視社会」を疑うことなく生きる民衆の中にあって、そのシステムを疑い始めた人物が何らか(多くの場合はシステムの破壊)行動を起こす、という物語となる(はず)。
本作においても、リュリュ(北村有起哉)の行為は、そう映るかもしれないが彼はシステム自体に全く興味を示さない。
それ以前に、リュリュを含め、本作に登場する人物たち(=民衆)は、システム自体を信じていない。それどころか、他人はおろか、自分自身についても、何も信じてはいないのだ。
「定型」の物語は、他人や自分を信じているからこそ、システム破壊に向かって連帯が起こるが、本作の世界観ではそれは起こり得ない(だから逆に、「自分自身」を信じ切るヒロインのノーラ(緒川たまき)がピュアな存在となり、リュリュが彼女を信じて愛することが「大人のための寓話」として機能する、という「定型」とは真逆の思想となる)。

これは明らかに、コロナ禍という状況によって立ち上げられた「ケムリ研究室」ならではの発想だろう。

「定型」が機能するためには、「社会を管理するシステム」への絶対的信頼が必要条件となる。
しかし、コロナ禍において日本はもちろんのこと、世界中の大国/小国問わず、政府(という国家システム)の無能さが露呈してしまった。それにより、「定型」の必要条件への信頼を失ってしまった(国民を完全統制する政治システムを運用できるほど、世界中の政治家(或いは人間自体)は優秀ではない)。

人間によるシステムだけでなく、「定型」にありがちな「コンピュータ(AI)システムによる管理・監視社会」においても、「対話型(生成)AI」の登場により、AIが思考ではなく確率計算によって答えを導き出すことが知られることとなり、だから間違いや齟齬が多々あることが露呈したばかりか、ヘイトを出力したり人間に求愛するAIが報道されるなど、「簡単に暴走する」ことも明らかになってしまった(さらに言えば、「確率計算ではなく(人間的)思考」によるAIの可能性が示されない現状において、AIの将来的希望を信じることもできなくなった)。

本作は、システムに管理されていることを知りながらも、誰もそのシステムを信じておらず、しかし、システムに管理されていることを知っているが故に、他人も信じてはいないという、ある意味において本当の「ディストピア」を描いている(だから信じられるのは、自身の「思い出」を基に作った故人の「音声テープ」のみとなる。故人ゆえに、故人本人によって「思い出」が上書きされることは、絶対にない。同様に、シグネ(水野美紀)の赤ちゃんが母親の期待を裏切ることも、絶対にない)。

本作、特に一幕においては、時間軸や関係性を無視した「断片的エピソードのコラージュ」で構成されている。これが意図的なのは、上述したKERAの『今回は、具体性のある物語を書いているようで、「具体性なんかないんだよ」ということをチラチラと見せているつもり』の発言からも明らかだ。

この『具体性なんかないんだよ』という断片的エピソードを『具体性のある物語を書いているよう』に見せるため、あらゆるテクノロジーがふんだんに、しかも効果的に使われている。
まず、KERA作品には欠かせない「プロジェクションマッピング」。
しかし今回は、従来の「意味のありそうな映像」ではなく、単純に「照明」としても使われていることに驚く。舞台は2階建て構造になっているが、プロジェクションマッピングを「照明」として使うことにより、1階と2階を効果的に、瞬時に切り替えていく。
「音」も重要で、わかりやすい「BGM」や「効果音」だけでなく、シーンまるまるバックに低音が流れ続けるなど心理効果を狙った音が多用されているのも、従来のKERA作品との違いだろう。印象的だったのがホテルのシーンで、時計の振り子と思われた音が心臓の鼓動(或いは、タイムリミットが近づいていることを知らせる音)に変化してしまったのは、本当に驚いた。
さらに言えば、パンフレットでもKERA自身が発言しているとおり、「吊りものパネル(背景やセットを吊る演出)」が使われているのも、本作の特徴だ。
舞台機構の故障で初日が延期されたが、それも納得できるほどの、緻密に計算された演出だった。

しかし、本作を効果的に見せているのは、テクノロジーだけではない。
やはり、「生身の身体」こそが最大の効果だ。
特に、サーカス団も兼ねるパフォーマーたちのダンス・パントマイムは、本作に漂う「まがまがしさ」に、絶大な寄与をしている(KERA作品における小野寺修二の振付は、セットチェンジまでをもパフォーマンス化し、結果、シームレスな物語に見せる効果を持っている)。

本当か嘘かは知らないが、人間が夢を見るのは、寝ている間に記憶の整理をしているからだとも言われている。
故人との思い出をテープに吹き込み、それを再生するロボットを愛でるノーラにとって、記憶を整理されてしまうのは耐えがたいことだろう。
だがそれはつまり、整理する記憶さえ無くなれば安心して眠れると言い換え可能であることも意味する。
ラストシーンを観ながら、そんなことを思った。

逆に言えば、我々観客は「整理される途中の記憶の断片」を観ていたのかもしれない。
冒頭に私は、『"作り物"だと知っているのに目の前で"演じられて"いるモノに本気で没頭しながらも、劇場を出た後には「アレは一体何だったのだろう?夢でも見ていたのか?」とキツネにつままれたような感覚に陥る芝居だった』と書いたが、あながち私の思い込みだけではないのかもしれない。

『具体性のある物語のようで、「具体性なんかないんだよ」』
夢とはまさに、そんなものだ。

メモ

ケムリ研究室no.3 舞台『眠くなっちゃった』
2023年10月14日 ソワレ。@世田谷パブリックシアター

本文で「記憶の断片」と書いたが、本作劇中でも「断片」を見ることができる。
たとえば、登場する医者は「ホフマン」と名乗り(『ドクター・ホフマンのサナトリウム~カフカ第4の長編~』(2019年))、修道女の祈りの言葉は恐らく『修道女たち』(2018年)のものだ。
私はKERA作品に詳しくないので、それくらいしかわからなかったが、きっとこれ以外にも「断片」が散りばめられていると思う。

もうひとつ、本文に「対話型(生成)AI」と書いた。
それらAIが云う「パターンを学習する」とは、まさに「他人の記憶・記録パターン」を「吸い込む学習する」ことを指す。
とすれば、ボルトーヴォリ(篠井英介)だけは、顛末を含め、『具体性なんかない』本作で唯一の『具体性のある物語』なのではないか?


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