NODA・MAP 舞台『兎、波を走る』(ネタバレ?)(第31回読売演劇大賞 優秀作品賞受賞作)

ドボルザークの「家路(遠き山に日は落ちて)」が流れる中、目の前の舞台で行われている「事実」と、その後、アリスが繰り返す『お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん……。』(戯曲にあるとおり10回、全て手入力した。あのシーンを「目撃」した者として、コピペなんて絶対にできない)を聞きながら、涙と鼻水と全身の震えが止まらず、それでも舞台から目を逸らすことができなかった。
「目を逸らしてはいけない、"目撃"せよ」
理性がそう叫ぶ中、しかし、理性で押さえつける以前に、身体がそう反応していた。
アリスの母のセリフ(ブレヒトの『コーカサスの白墨の輪』のもじり)が過る。

助けを呼ぶ声を聞こうとはせずに、耳をふさいで通り過ぎるものは、二度と再び、わが娘の呼び声を聞かないだろう


NODA・MAPの作品は、これまでも戦争や日航機墜落事故など「過去に起こった現実」を幾度となく描いてきた。しかし、それらは「単なる過去」ではなく「忘れてはいけない過去」だった。
そして2023年、野田にとって2年ぶりとなる新作『兎、波を走る』(野田秀樹作・演出。以下、本作)こそ、「単なる過去」ではなく「現在進行形であるにも拘わらず、忘れ去られそうな現在」を描いている。
その野田の想いの強さは、彼にとっては珍しい直截的なセリフで伝えられることからも、はっきりとわかる。

アリス 穴に落ちたアリスの話のこの先を続けて。ここでこの話を終わりにしないで。
アリスの母 続けて、誰か、アリスの話を。

本作のアリスについては、様々な人が「ネタバレ」と称して仔細に話してくれるだろう。
では、私は、このアリス母娘の悲痛な訴えに、何と応えられるだろう……?
そう思案に耽る。

構造としては、わかりやすく分けて、3つの「お話」がパッケージ化されている。
一番外枠にあるのが、チェーホフの『桜の園』。
ロシアの没落貴族女性・ラネーフスカヤ(本作では屋根襖屋鍛冶子ヤネフスマヤカジコ(秋山菜津子))が、自身が過ごし愛した「桜の園」を手放すという話だが、本作では「桜の園」を「遊びの園=遊園地」になぞらえている(ちなみに、「桜の園」は出入りの商人・ロパーヒンが購入するが、本作ではシャイロック・ホームズ(大鶴佐助)となっている。それにしても、シャイロック=金貸し、シャイロック・ホームズ≒シャーロック・ホームズ、ホームズ=不動産屋を想起、なんと凄いネーミングだろう)。

この外枠は物語だけでなく、芝居全体の外枠でもある。
本作パンフレットで、野田はこう言っている。

チェーホフの戯曲は、大体その場で事件が起きない。銃声が聞こえるのも事件が起きるのもそと。そういう自分の芝居に無かった構造が最近いよいよ面白くなってきて(略)

この「遊びの園」に、何故か急いでいる脱兎だっと(高橋一生)が現れ、本作の中心であるルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が発動する。
物語はそれをベースにしながら『鏡の国のアリス』の「鏡」の部分が掛かる(ちなみに、本家『アリス』では兎が急いでいるのは公爵夫人の元に"戻る"ためだが、鏡構造の本作では"逃げる")。
その「鏡」は、主に、脱兎が内包するジェームス・バリーの『ピーター・パン』に掛かっている。

脱兎 あ、僕の前世がピーターパン(略)まあいいや、今は信じなくても、そのうち現れる(略)
アリス 前世なのになんでこれから現れるのよ。
脱兎 きみって頭いいね。

「前世がこれから現れる」という「時間が逆向き」なのは『鏡~』の白の女王を想起させる(ついでに、『きみって頭いい』というのは、ピーターが迷子が男の子ばかりなのは「女の子は頭がいいから、乳母車から落っこちない」ためだと言ったのを想起させる)が、それはさておき、ピーターパンと迷子たちが暮らす「ネバーランド」は、「遊びの園」を超えて、「地上の楽園」となる。

脱兎 今日もここに、あのネバーランドの兎になる前のピーターパンの迷子達がやって来た。

この「地上の楽園」である「ネバーランド」は、先のとおり「鏡」になっており、だから迷子達は「お母さんなんて要らない」と言う。しかし、重要なのは、ピーターパン(脱兎)のセリフだ。

ピーターパン(脱兎) いいや、芸能人の話をしては体重ばかりを気にしているそういう母親だったら要らない。母親はぼくたちの手で決める。それで、連れてきたんだ君を、きっと。

(セリフ中の太字は引用者)

アリス(多部未華子)は返す。

アリス (略)わたしは、あなたに『二つ目を右に曲がったら、そのまま朝までまっすぐ』とか言われてこのネバーランドに連れてこられたのよ。

物語序盤で語られるこのセリフ、観終わった後だと、その意味が全く違って聞こえるが、それだけでなく、本家『ピーター・パン』の意味さえ違ってくる。
ウェンディがピーターの家の場所を尋ねると、彼は『二つ目の星を右に曲がって、そのまま朝までまっすぐ』と答える。
ウェンディ『変な住所ね。手紙にどう書くの?』
ピーター『手紙なんか来ない』
ウェンディ『でも、お母さんには来るでしょ?』
ピーター『お母さんなんて、いない』

つまり、「ネバーランド(地上の楽園)」には手紙は届かず、逆にお母さんにも手紙は来ないのである。

説明し忘れたが、脱兎の前世(ピーターパン)は、彼の「影」となって現れる。
本家『ピーター・パン』は、「引き離された」影を取り戻しに来たピーターがウェンディと出会い、共にネバーランドへ旅立つ。
「鏡」である本作においては、最終盤で、『平熱38度線』を超えて、ピーター(影)が「ネバーランド(地上の楽園)」にウェンディ(アリス)を救いに行くという逆転構造になっている。

さらに、たとえば先のアリスのセリフの後のシーン。

アリス 私のお母さんが待っているもの。
ピーターパン(脱兎) どうだろう、待っているかな。
アリス ええ、私が出ていった夜の窓を開けたままでいてくれてる。
ピーターパン(脱兎) いてくれてる?
アリス はず。
ピーターパン(脱兎) そのはずがはずれた。

最後の脱兎のセリフは言葉遊びでもあるが、これによって話が逆転してしまう。
上記やりとりは、ウェンディが家にいる両親を思い出しネバーランドを出て行こうと決意したときのもので、実際は母親のミセス・ダーリングは窓を開けて待っていた(本作でも、アリス(ウェンディ)の母親(松たか子)は、娘の帰りを待っていた)。
窓が閉じていた(しかも、母親の横に置かれたゆりかごには「知らない赤ん坊」が寝ていた)のは、ピーター自身だった(その経験談でウェンディを引き留めようとした)。
ピーターが発した『そのはずがはずれた』で逆転構造となった本作は、ウェンディが帰れなくなり、ピーターがネバーランドを出てゆくことになる。

この言葉遊びは野田秀樹の最大の特徴の一つでもあるが、それはルイス・キャロルにも大きく通じる。
『アリス』シリーズは、実に多くの言葉遊びで作られており、「アナグラ穴倉ム」(綴りの入れ替え)もその一つだ。

本作、『兎、波を走る』というファンタジックなタイトルの本当の意味がアナグラムによって暴かれるシーンが見どころの一つでもある(野田作品初体験の観客は、恐らく卒倒しそうになっただろう)。

アナグラムを含めた言葉遊びについて『不思議の国のアリス』の中では、たとえば第7章「A MAD TEA-PARTY」において、ネムリネズミがする「井戸の底に住む三人」のお話の登場人物は、エルシー・レイシー・ティリーだが、それぞれ、モデルとなったアリスの、姉(Lorina Charlotte)の頭文字、アリス(Alice)のアナグラム(Lacie)、妹(Edith Matilda)の愛称、となっている。

本作、アナグラムによってタイトルの意味が暴かれることによって、その時代と場所が明らかとなる。

いちいちあげつらわないが、たとえば、それ以前にシャイロック・ホームズがテレビをつけるシーンがある。

「成田闘争らしき実況放送」(時代は特定されない)

と、わざわざト書きに書かれているが、その映像になるまでテレビをザッピングしている中で、「丹下段平」らしきアニメ映像が一瞬映る。
これはもちろん、単なる遊びや「時代を匂わす」的な仕掛けではなく、重要な伏線だ。

つまり、劇中でネバーランドに亡命した『強がり思い上がり独りよがりのどや顔たち』は、飛行機("よど号"。劇中では"どや号")をハイジャックしたあと、自分たちをこう称したのだ(確か田宮高麿による声明文ではなかったか)。
「我々は、明日ママのジョーである」

もちろんジョー(或いは力石徹)というシンボルに、成田闘争を含む全共闘から発展した運動を行う人々が自身を投影していたという面もあるだろう。
さらに、「どや」というのは、文字通りの意味に加え、ジョーがドヤ街に足を踏み入れ丹下段平に見初められた、という意味もある。

何故、『強がり思い上がり独りよがりのどや顔たち』はネバーランドに亡命したのか?
そこが「地上の楽園」と謳われていたからに他ならず、本作では『うつつの国では、にっちもさっちもいかなくなったから、あっちへ行』って『拉っ致をする、その手助けを』(劇場ではテンポの良さに誤魔化されたが、改めて読むと強烈なセリフだ)と説明されるが、では、そのネバーランドは何故、そう謳わねばならなかったのか。
本作は言う。

脱兎 妄想と現実の間にある、見えない線。平熱38度の国境線。

「地上の楽園」と「妄想もうそうするしかなかった」国は、「もう、そうするしかなかった」のである。

そして、ウェンディを穴倉(ム)から救出するため平熱38度線に戻って来た影(脱兎)は、行く手を阻まれながら言う。

脱兎 妄想の 大地から うつつの空へ
   飛びゆく鳥よ 自由の使者よ
   誰が 妄想と 現実を
   二つに分けてしまった
   誰が 分けてしまった

しかし、「妄想」の国は妄想の中にしかないのではなく、うつつにまさに「現存」し、アリスのような人たちが生きている現実である。
上記脱兎のセリフで想起されるリムジンガン(日本では「イムジン河」)という曲を「妄想の中の現」で聞いた蓮池薫氏は、『えらい歌聴いちゃったな。しばらく感傷的になった。そういうこと考えずに暮らしてきたのに、"鳥になって故郷に帰れたらな"という想いが無意識のうちに湧いてきて抑えきれなくなった』と証言している。
彼が言った『そういうこと考えずに暮らしてきた』というのは、まさに「もう、そうするしかなかった」ことの証しだ。

本作のストーリー上、妄想と現が、北と南を厳密に示唆することになっているが、ここで「鏡の逆転構造」を持ち出すと(思い出したのでここに書いておくと、「とにかくミサイルを撃ちたがる将軍様」と「とにかく首をはねたがる女王」が性別的に逆転している)、現実にはそうとは断定できない。
ヤン・ヨンヒ監督の映画『スープとイデオロギー』(2022年)で描かれるように、「済州島四・三事件」は現と妄想が入れ替わった逆転構造になっていて、それがきっかけで南に生まれながら「もう、そうするしかなかった」と北を母国に選んだ人たちがいたのも、また現実である(ちなみに、脱兎が受けた訓練については、ヤン監督の劇映画『かぞくのくに』(2012年)において、一時帰国した兄(井浦新)が妹(安藤サクラ)に持ちかける話を想起させる)。

いずれにせよ、この「もう、そうするしかなかった」「妄想の国」での出来事は過去のものではなく、現在進行形である。
そこで野田は、舞台上に現代の「不思議の国」ともいえる「メタバース」(性別や背の大きさ体格どころか、人間の姿かたちをしていない「生き物」たちが、かつてアリスが経験したように人間の言葉でコミュニケートしている世界)を出現させる(「舞台」もある意味において「仮想空間」)。

現実空間の身体は別の場所にいるのに、オンライン上の空間に一緒にいるように感じられるという「メタバース」でのコミュニケーションを実現するための基礎技術は、3D(三次元)CG空間への没入感をもたらすゴーグルの使用が言及されることも多いことから明らかなとおり、VR(ヴァーチャルリアリティ)だ。
(略)
一方、現実空間に情報を重畳ちょうじょうさせる技術であるAR(オーグメンテッド・リアリティ)を源流とする「メタバース」の提案もある。実空間にそのときそこで必要な情報を表示する(略)

本作ではゴーグルをつけていることから基本的にVRの世界だが、ARについても言及している。

初音アイ でもこれはただのVRではないのAR、わかアール?
シャイロック 私ゲームばっかしてたゲーム馬鹿だから。本当はそういうR関係の言葉は。
初音アイ つまりね、現実の絵の中に仮想現実がのっかってくるの、わかアール?(略)ポケモンGOのことよ。

これは、「妄想するしかない国」から送られた兎たちの存在は「ヴァーチャル的」であっても、ゴーグルのような道具を装着しなければ見えないのではなく、実存として『現実の絵の中に仮想現実がのっかって』いることを示唆している。

ここで初音アイなるVTuber的ヴァーチャルアイドルが出現するが、声を充てているのが東急半ズボン教官(山崎一)であることから、「バ美肉」であることがわかる(アイはもちろん"AI"にかかっている)。

「バ美肉」とは「バーチャル美少女受肉」の略で、『かわいい(cute)外見になり、甲高い声で話し、キッチュな衣装を選び、若くてかわいい女の子の遊び心(playfulness)を模倣する男性たち』を指す。

VTuberは日本の伝統芸能-歌舞伎と人形浄瑠璃-に由来するという意見もある。(略)GameCast・トシはバ美肉が女形から進化したことを示唆し(トシ 2018)、バ美肉たちは彼らの実践と人形浄瑠璃の類似性を強調している。

そのことと無関係だろうが、本作でも『不思議の国のアリス』に登場する三月うさぎや帽子屋、チュチェ猫が、沢則行の人形にて出現する。

物語は、「メタバース」「AI」を経て、「チャットGPT」に到達する。
序盤から登場していた、歴史的作家を祖先に持ち、その「血」を少しだけ受け継いだ二人の劇作家・「ロ血ア人」の知恵豊富チエホウフ(大倉孝二)と「ドイ血人」のブレルヒト(野田秀樹)の「血」は「知」にかかっており、つまり、AIにとっての「血」とは「知」であることが示唆される(人間においては「が混じる」ことによって新たな生命が誕生するが、「チャットGPT」に代表される対話型AIにおいては「が混じる」ことによって新たな意味が誕生してしまう)。

ということはともかく、本作はまぎれもない事実を描いていることだけは確かだ。

アリスの母 あの秋の肌寒い夕さりつ、バドミントン部のクラブ活動を終えた帰り道に、中学一年生だったアリスが、曲がり角で友達と別れた、その時、アリスに起こった出来事、それを聞いたことがあるのね。
脱兎 ……はい。
アリスの母 話してくれる、その茜色の夕暮れを。

それは1977年11月15日のことだった。
そしてアリスの母は、脱兎に出会う前、アリスが「妄想するしかない国」で亡くなったと聞かされた。
アリスの母は記者会見でこんなことを述べた。

このように本当に何もない、いつ死んだかどうかさえわからないようなこと、わたくしとても信じることができません。このように本当に長い間放置され続けてきた、日本の若者たちのことを、どうぞ皆様方、真心をもって報道してください。日本の国のために犠牲になって苦しみ、また亡くなったかもしれない、若者たちの心の内を思ってください。

その後彼女は、本作同様、そこからの脱兎(劇中では、役名ではない名前が明かされる)によって、その報せは「もう、そうするしかなかった」故の「妄想」だったと明かされる。
2023年。脱兎の証言から20年が経った。
人々は、『日本の国のために犠牲になって苦しみ、また亡くなったかもしれない、若者たちの心の内』を忘れようとしている。

アリス お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん……。

舞台の上の野田は、「耳をすませ」と言っている。

メモ

NODA・MAP 舞台『兎、波を走る』
2023年7月7日。@東京芸術劇場プレイハウス

ここまで書くのに7時間掛かったが、何も書けていないような気がする。
どうせ本編のことなぞ、私の知識程度ではちっとも説明などできないのは承知だが、それでもアリスと彼女の母親のことを思うと、何かを書かなければと。

『ピーター・パン』についてもう少し補足しておくと、彼はウェンディに身体を触らせない。
理由を聞く彼女に、『知らない。誰も僕にさわったことがないんだ』と答える(劇中では、その後、彼にさわっているような場面が見受けられるので、あまり触れたくないのだが)。
また、彼は空を飛べるだけでなく、声色を変えることができる。フック船長の声色でタイガー・リリーを助けたり、(色気がある)女性の声でフック船長を惑わせたり。
「触れられない(触れさせない)」「声色が変わる」というのは、つまり、彼自身が「ヴァーチャル」な存在であり、本作になぞらえて言うと、彼は「少年」或いは「子供」という存在の「アバター」であるとも言える。

出演者のことを書かなかった。これだけの説得力があったのだから演技も演出も良かったということだ。

本稿に引用しているセリフ・ト書きは、全て、私が観た日に発売された「新潮」2023年8月号に掲載されている戯曲を使用した。私は当日、書店で購入したが、なんと、劇場でもちゃんと売っていた。
観劇後に読むと、本当に、最初から意味のあるセリフしかなかったのだと、改めて野田氏の才能に驚愕してしまう。

劇場では、冒頭の高橋一生さんの難解なセリフを受け、秋山菜津子さんが『わからない!今の男の台詞がわからない。みんなそう思っていると思うわ』と突っ込むセリフに笑いが起きていた。だが、観劇後に読むとどうだろう。

脱兎 不条理の果てにある海峡を、兎が走って渡った。その夜は満月。大きな船の舳先へさきが、波を蹴散らしては、あまた白い兎に変わった。アリスのふる里から逃げていく船は、代わりに兎をふる里に向かって走らせた。僕はその兎の一羽。不条理の果てからアリスのふる里へ、とりかえしのつかない渚の懐中時計を、お返しに上がりました。

私はこの一文を読んだ時、この、一見不条理なセリフが、実は条理だったという「逆転構造」に鳥肌が立った。そしてラストのセリフにも……

参考資料

『兎、波を走る』パンフレット
『兎、波を走る』戯曲(新潮 2023年8月号)
『不思議の国のアリス ヴィジュアル・詳註つき』(ルイス・キャロル著、高橋康也・高橋迪訳、河出文庫、1988年、2022年新装版)
『不思議の国のアリス 完全読本』(桑原茂夫著、河出文庫、2015年)
喜多千草「源流から考える「メタバース」」(現代思想 2022年9月号)
リュドミラ・ブレディキナ/池山草馬訳「要約「バ美肉 バーチャルパフォーマンスの背後にあるもの-テクノロジーと日本演劇を通じたジェンダー規範」」(現代思想 2022年9月号)
NHK「アナザーストーリー」2020年2月18日放送「時代に翻弄された歌 「イムジン河」への対抗」
NHK「アナザーストーリー」2022年1月25日放送「あしたのジョー 時代と生きたヒーロー」
古舘伊知郎トーキングブルース15th「言葉」(2002年)
映画『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督、2012年)
映画『スープとイデオロギー』(同上、2022年)
Wikipedia「横田めぐみ」

参考にした拙稿

ピーター・パン関連

メタバース

済州島四・三事件


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