素直なようで倒錯した"物語"~舞台『スルメが丘は花の匂い』~

舞台『スルメが丘は花の匂い』(岩崎う大(かもめんたる)作・演出。以下、本作)は、吉岡里帆さん初主演作と銘打たれたファンタジー・ハートフル・コメディーだ。

本作を乱暴に一言でまとめると、「主人公が、"物語"の世界に迷い込んでしまう話」となると思うが、実はそんな単純な話ではない。
本作は、「既にある"物語"の中に主人公が迷いこむ」わけでも「主人公が迷い込んだことにより、結果的に"物語"になってしまう」わけでもなく、「迷い込んだ世界(スルメが丘)の住人は、最初から"物語"になることを望んでいる」ことに特異点がある。
冒頭で「ファンタジー・ハートフル」と紹介したが、実は本作が描いているのは、"物語"になることが目的化された世界で、その住人たちが「自己抑制」している極めて現実的な問題であり、"物語"の側からの「近代物語」への批判である。

私は以前、松浦理英子著『最愛の子ども』(文春文庫、2020年)について書いた拙稿の中で、『物語を語るということは、どうしても語り手の欲望に合わせて語るということになる。その暴力性(略)』という作者・松浦氏の発言を引用した。

つまり、スルメが丘の住人たちは、『語り手の欲望に合わせ』させられた結果、各々が自己抑制しているのである(本作における『語り手』とは、預言者と言えるだろう)。
だから本作がハッピーエンドなのは、最終的に住人たちが『語り手の暴力性』を打ち破り、「自分」を解放させるからである。

で、本作は、「(ある意味での"暴力性"を伴って)作者が作っている」と思われている"物語"が、実は「"物語"側から要請されている」という、主従逆転の倒錯した世界となっている。
だから、現実世界から迷いこんできた主人公縁緑えにしみどりが、スルメが丘の住人たちに戸惑うのは、「物語世界に迷い込んだ」からではなく、「作者(読者)」と「物語」の関係性が逆転しているからである(穴に"落ちる"のがその象徴)。

物語作家の中には、少なからず「執筆している途中から、登場人物たちが勝手に動き出す」という経験(感覚)を持っている人がいる。
それはもしかすると、"物語"側からの「要求」かもしれないし、あるいは「抵抗」「反逆」かもしれない……


と、ここまで書いてきたが、本作、難しく構える必要は全くない。
純粋に面白いし、主演の吉岡里帆さんや、クロエ役の鞘師里保さんはカワイイし……
しかし、そうやって純粋に劇世界を楽しめるのは、しっかりした脚本(と演出)があるからだ。

さすが、2020年、21年と2年連続岸田國士戯曲賞にノミネートされている岩崎う大氏だけのことはある。


メモ

舞台『スルメが丘は花の匂い』
2022年7月23日ソワレ。@紀伊国屋サザンシアター TAKASHIMAYA (アフタートークあり)

ちなみに、個人的には本作は『オズの魔法使い』ではないかと思っている。
自分の言うことをエム叔母さんたちが聞いてくれない不満を持ったドロシーが、竜巻にさらわれて迷い込んだ世界での様々な経験を通して自分の本心を知り、「赤い靴」を3回合わせるだけで家に帰る話だ。
本作は、現実世界でやりたくないことを強要され不満を持っている縁緑がスルメが丘に迷い込み、色々な経験を通して自分の意志を見つけ、カエルの「置き手紙」だけで現実世界に戻る話だ(『星の王子様』でも良さそうだが、それだと肉体は置いていかなきゃならないし)。


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