舞台『ワタシタチはモノガタリ』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

「人生は物語」という表現がある。それが転じてか、「私の物語を生きる」と言ったりもする。
しかし我々は本当に、「私(だけ)の物語」を生きているのだろうか?

舞台『ワタシタチはモノガタリ』(横山拓也作、小山ゆうな演出。以下、本作)を観ながら、そんなことを私は考えていた。

肘森富子ひじもりとみこ(江口のりこ)と徳人《のりひと》(松尾諭)は中学校時代の同級生で当時は文芸部に所属。中学3年の夏、徳人が大阪から東京に引っ越してしまい、それから15年間、二人は文通を続ける。二人の間には恋に似た感情があった。しかしその気持ちは互いに伝えられることはなく手紙の行間に淡い恋心が滲んだ。二人が手紙の中で唯一交わしたのは、「30歳になってどっちも独身だったら結婚しよう」という約束とも言えない、冗談混じりのささやかな愛情表現。その言葉が書かれた手紙を見返すたび富子は心がときめいた。しかし、徳人は30歳を迎える年に職場の女性と結婚を決める。その結婚式で15年ぶりに再会を果たした二人。富子は徳人への想いを隠しながら祝福し、「あなたに書いた手紙を全部私にください」とお願いした。

長きに渡る往復書簡を<富子>を<ミコ>に、<徳人>を<リヒト>という名に変えて、かなりの脚色を加え、富子はSNSに投稿した。手紙の中の2人と現実の2人は、ビジュアル(文章からイメージされるルックス)も、綴られた出来事や思い出にも大きな乖離があったのだが、瑞々しく純粋な恋心がにじむ手紙群は、瞬く間に評判となり、いよいよ出版、映画化の話が動き出す。それを知り憤怒する徳人。徳人は恥をかかされることを恐れ反対する。富子はこの映画化を機に、物書きとして生きていきたいと必死に徳人を説得。仕方なく二人で、納得できる映画の脚本を書くことになる。

物語の中に生きるミコ(松岡茉優)は、その改ざんの改ざんに反発して、作者である富子と徳人に文句を言ってきた。私はもっと劇的でありたい。リヒト(千葉雄大)との恋愛は徹底的に美しくあってほしい。一方、リヒトは自分を生んでくれた富子をリスペクトしている。今回の脚本創作に際し、はじめて対面することになった自分の〝元〟である徳人に対して、大きな不満を抱いた。富子と徳人が見出す着地点は?ミコやリヒトの思考はいったい誰のモノ?

現実と虚構が入り混じる、ファンタジックなラブ・コメディ。

本作公式サイト「あらすじ」

本作を凄く乱暴にまとめてしまえば、「現実世界と物語世界の垣根がなくなってしまった世界で、現実と投影した物語が、現実に投影されてしまう物語」ということになり、つまり、その捻れがコメディー的要素となる。
しかも本作の巧さは、「物語世界は現実世界を書き写したものではなく、あくまで『投影』しているに過ぎない。つまり、物語世界は現実世界と作者の乖離(=理想)が『投影』されている」ということだ。

ということでつまり、物語世界においても「現実世界」がベースになっており、それがさらに「映画化」という位相が違うフィクションが提示されるに至り、現実世界とさらに複雑な関係性が出来上がってしまい、それらを全て「投影されたキャラクター」が演じる、という、「物語化」のメタフィクションの上に、「映画化」のメタフィクションが上乗せされている物凄く複雑な構成になっている
その複雑さを、ライトな笑いと、俳優が2役、3役演じることの必然性の完全さによって、観客に感じさせない作劇と演出は見事。

で、だから必然的に、登場人物たちは各々の「自分の人生」を、作者である富子に要請することになる。
さらに、「自分が書きたいことを書いたらバズってしまった」と思っている富子は「物語は自分の書きたいことが書いてある」と錯覚している。
「錯覚」と書いたが、上の文に矛盾はない。
文章は「自分の書きたいことが、そのまま書いてあるわけではない」。

それは「気持ちを完全に文章にできない」ということも含まれるが、もっと根源的な意味がある。
富子と徳人が関西出身で普段の話ことばが関西弁である、にも拘わらず、文通の文章は「標準語」であることは大きな意味がある。
「標準語」は明治時代以降に国が統一した国語教育などを行うため「便宜上」規定した人工的な「書き言葉」である。
つまり、その時点で手紙は「自分の書きたいこと」を離れ、「物語化」している(加えて言えば、本作では実際の宛先と文章中の宛先すら一致していないことが明かされている)。
この「方言」と「標準語」の違い、一部を除いて自作の登場人物が関西弁を喋ることに拘ってきた横山が、気づかないわけではない。

もう一つ、「自分の書きたいことが、本当に自分の中から出てきたものか」という問題がある。
本作で示唆的なのは、富子の物語のファンで、映画化の鍵を握る川見丁子(松岡)が、まだ発表されていない結末に(ファンとしての)希望を伝えるシーンだ。
個人的には「小説は作家のもの」「映画は監督のもの」「舞台は俳優のもの」「ドラマは視聴者のもの」と思っていて、その妥当性はともかく、小説と映画は、恐らく対象とする人が違っているだろう(余談だが、ドラマについては、本作と同じような複雑なメタ構造を持つ『恋愛戯曲』(鴻上尚史作、2001年初演)という名作がある。そこでは『ドラマは視聴者のもの』とされている。『視聴者は自分たちが想定できない意外性は評価しない』)。
富子は「自分の書きたいこと」と「(丁子のような)ファンの望み」「各登場人物たちの望み」が、「自分から見て各々の立場を鑑みて理解できてしまう」故に、それらを「自分の書きたいこと」として内面化しようとしてしまうが、「しようとしてしまう」ことによって、「自分の書きたいこと」からどんどん乖離してしまう。

先に「小説は作家のもの」と書いたが、それを一貫して主張している(そして、個人的には唯一まともなことを言っていると思っている)のが、徳人だ。
誰にも理解してもらえず、言葉を吐き続ける彼だが、言っていることの本質はただ一つ。
『「書いたもの」ではなく、「書く行為そのもの」が自分である』

今、こう書いてわかったのだが、私が特に二幕後半、富子・徳人・ミコ・リヒトが同じ次元で話をする場面で、面白く観ながらも軽くイラついていたのは、徳人の『「書いたもの」ではなく、「書く行為そのもの」が自分である』というシンプルな主張がとおらないからで、それは「作為」ではないかと疑っていたからかもしれない。
しかし、考えてみれば、本稿だってどんなに私が考えても、思いつく資料に当たってみたとしても、文章の組み立てに苦心しても、一度ネットに上がってしまえば、それは絶望的なまでに汲み取ってはもらえない(だから私は、投稿したものが「自分を表現している」と思ったことはない)のだから、『書く行為そのもの』と言われて、登場人物だけでなく(リアルな)観客ですら、ピンと来ないのは当然だったのだ。

もしかしたら横山も落としどころに迷ったかもしれないが、物語は結局、緩やかに「書く行為」へと流れてゆく。
それは間野ショージが『丁子の企画ではなく、自身が撮りたいドキュメンタリーを撮る』という選択をすることからも伺える。
さらに言えば、彼が『真実が見えている』と言って被写体に選ぶウンピョウは、始めから『作品はどうでもいい。書いている間が全て』といった発言をしている。
つまり横山は、初めから『書いている間が全て』だと主張していたのだ。

「人生」も同じである。
わたしたちは常に、富子のように他者の要請や現状に対して忖度しながら、それを「私(だけ)の物語」にしようとしている。
そしてその物語が『書いている間が全て』だとしたならば、「ワタシタチ」は常に誰かの「モノガタリ」に影響を受け、また一方で誰かの「ものがたり」に加担していることになる。

そう、『ワタシタチはモノガタリ』というタイトルは、舞台上ではなく、「ワタシタチ」全観客に向けられている。

メモ

舞台『ワタシタチはモノガタリ』
2024年9月28日 ソワレ。@PARCO劇場

苦労の末、『私の物語』完結。


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