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映画『霧の淵』(ユーロスペース独占先行上映)

「私はまだ子どもやから」
母親と並んで歩く12歳の少女の正面からの2ショット長回しのシーンを観ながら、その少し前に少女が母親に告げた言葉が蘇り、何故だか泣きたくなった。

映画『霧の淵』(村瀬大智監督、2024年。以下、本作)はフィクションでありながら、それを支えているのは圧倒的な「リアル」だ。

奈良県南東部の山々に囲まれたある静かな集落。かつては商店や旅館が軒を並べ、登山客などで賑わったこの集落で、代々旅館を営む家に生まれた12歳のイヒカ(三宅朱莉)。数年前から父(三浦誠己)は別居をしているが、母の咲(水川あさみ)は、父との結婚を機に嫁いだこの旅館を義理の父・シゲ(堀田眞三)と切り盛りしている。
そんなある日、シゲが姿を消してしまう。旅館存続の危機が迫る中、イヒカの家族に変化の時がやってくる――。

まず、奈良県吉野郡川上村の自然があり、そこに足繁く通った村瀬監督、その中で築かれた関係によって地元の方々が自然体で出演されていること、そんな人々を、この地に移住して来た百々どうどう武氏が撮影する……それがスクリーンから自然と滲み出て、圧倒的な「リアル」となる。
そして何より、イヒカを演じた三宅朱莉、その存在自体が「リアル」だった。

映画初出演が主演作となった彼女の佇まいは、思春期に差しかかった、その、自身でもコントロールしきれないモヤモヤした鬱屈の現出そのものだった。
本作の中で、イヒカはほとんど笑わない、微笑みどころか、愛想笑いすらしない(旅館に宿泊していた大学生の被写体になったときの、あのショットには物凄く驚いた。あれこそが「イヒカ」そのものだった)。

初日舞台挨拶で村瀬監督が言及していたのだが、『(イヒカ役の)オーディションを受けに来ていた子がみな、目がキラキラ輝いていたのですが、朱莉ちゃんだけは、来た時からもう、帰りたそうだった』、それが『両親の不仲を感じ、黒目はつや消しで、中学校に上がる前の気だるさを持っている人を求めてい』た監督の目に留まった。

本作は、恐らく映画として珍しいと思うが、主人公を正面から捉えたショットが極端に少ない。上述した、大学生が撮った写真のシーン、母親と並んで歩く長回し、それ以外に数カット。
斜に構えたショットも多いが、圧倒的にバックショットが多い。
それは、イヒカが『子どもやから』だ。
つまり、『子ども』である彼女は社会(共同体)に主体的に関わりを持つことが許されていない。彼女は常に「見る存在」として描かれる。カメラは、何か(通りを挟んだ向かい側の宴会場で盛り上がる大人たちとか、倒れた通行禁止の看板を元に戻すシゲ兄の姿とか)を見ている彼女を後ろから見守る。

本作は映画として本来映っているはずのものが、ほとんど映っていない。
イヒカのバックショットが多いということはつまり、彼女がどんな表情をしているかわからない、ということでもある。
冒頭の夫婦の話し合いのシーンでも、片方だけ開けられた襖越しに、夫の姿しか見えず、机を挟んだ向かいにいる妻は声しか聞こえない(その中に一瞬挟まれる水川あさみの姿は印象に残る)。
シゲ兄がいなくなって旅館を存続できるか不安になる咲の表情は、化粧を落とす洗面台の鏡越しに映し出される(普通の映画のように映す/映さないではなく、鏡越しに反転した表情を映すというのがミソ)。

圧倒的なのは、シゲ兄が失踪したことで物語が動き出すシーン。
シゲ兄不在の(咲とイヒカが並んで無言のまま淡々と食事する)食卓シーンが重ねられ、何度目かの食事の後、唐突に咲がイヒカに「どうしよう……」と呟くのだ(事実を見て見ぬふりして日常を保とうとしていたのが、いよいよ、シゲ兄がいなくなった事実の方が日常になってしまった。この日常の反転がイヒカの成長につながる)。

シーンは移るが、本稿冒頭に書いた「私はまだ子どもやから」というイヒカのセリフは、咲の問いへのアンサーであり、ささやかではあるが(物語中で)初めて表出した親に対する反抗でもある(物語の序盤で将来について聞かれたイヒカの代わりに咲が、「この子はまだ子どもやから」と答えてしまうシーンがある)。

その反抗に続けて本稿冒頭に書いたシーンになる。
12歳の少女は大人の勝手な都合で「子ども」にされたり「大人」にされたりする。自分が何者なのか、霧の中にいるようだ。少女は少女なりの頑なさで、あやふやな「子ども」と「大人」の境界の淵で、何とかバランスを保とうとしている。
母親はイヒカに将来なりたいモノを聞く。それは、「子どもやから」と抑えつけられた、かつてのシーンに接続されて反転し、イヒカは「見る」存在から「見られる」存在になった。
「IT系のシステムエンジニア」
イヒカは、よく知りもしないどこかで聞きかじっただけの職業を口にする。彼女にとって「現実」は、まだ遠い所にあるのか、或いは、まだ知りたくないのか。
そうやって少女は、あやふやな「子ども」と「大人」の境界の淵で、何とかバランスを保とうとしている。
母親(大人)と並んで歩くイヒカ(子ども)の距離が近づいてくる。
その、祝福でもあり痛みでもある切なさに、きっと私は泣きそうになったのだと思う。

メモ

映画『霧の淵』
2024年4月6日。@ユーロスペース(初日舞台挨拶あり)

本文で、圧倒的な「リアル」と書いた。
それはイヒカの声にも通じている。映画初出演で12歳の三宅朱莉さんの声は「未熟」で、それは圧倒されるほどリアルで、数少ない彼女のセリフ(というか、ほとんどは呟きのようなもの)の度、私は鳥肌が立った。
水川あさみさんや三浦誠己さんといった「職業俳優」の声と明らかに違う(逆に云えば、俳優から出るセリフが如何に(ちゃんと)作られているかわかる)が、それは三宅さんが「下手」ということを全く意味しない。
初日舞台挨拶での初々しい受け応えも含め、作中のイヒカ同様、これからどんどん成長してゆくのである。

成長といえば、本作のキャッチコピーは『すべて、永遠じゃない』だが、それを象徴しているのが、イヒカたちが食事をするシーンで、常に振り子時計が時を刻む音だ。振り子は時を刻み、時間は進むばかりで戻らないことを教えてくれる。時を刻み霧が晴れて視界が広がった時、イヒカは何を見るのだろうか?

本作は2024年4月6日から渋谷・ユーロスペースで先行上映され、同19日より、順次全国公開される。

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