作品名なので堪忍してください~舞台『死ねばいいのに』~

舞台『死ねばいいのに』(京極夏彦原作、シライケイタ脚本・演出。以下、本作)を観て、同名の原作小説(講談社文庫、2012年)は読んでいないが、「エンターテインメント小説とはこういうものなんだ」と思った。

死んだ女のことを教えてくれないかー

三箇月前、自宅マンションで何者かによって殺された鹿島亜佐美。
彼女と関係のある6人の人物(津村知与支のりよし、宮崎香蓮、伊藤公一、涼子、阿岐之将一、福本伸一)の前に、渡来わたらい健也(新木宏典)と名乗る無礼な男が突然現れる。
健也との交わらない会話に、苛立ちや焦燥を顕にする6人だったが、彼の言葉にハッとさせられる。
問いかけられた言葉により暴かれる嘘、さらけ出される業、浮かび上がる剥き出しの真実…。
渡来健也との対話の先にある「死ねばいいのに」という言葉が導く結末とはー。

本作パンフレット「STOPRY」
(俳優名は引用者が追記)

原作は2010年に刊行されているが、それ以前に文芸誌に各人物の話として短篇連載されていたようだ。終演後のトークゲストとして登壇した原作者・京極氏本人によると、各短篇の主人公は各登場人物で、渡来はその主人公たちの前に現れる謎の男だということだ。
最終的に、渡来によって各短篇は一つの物語として接続されるわけだが、本作は物語を一本化する渡来を主人公にしている。

この構造によって本作は途中まで「犯人捜しのミステリー」として提示されるが、終盤、犯人があっさり自白することで原作の意図が表出する。
つまり、本作が描きたい(描いている)のは「犯人は誰か」ではなく、「人間の業」であるということだ。だから、犯人があっさり自白しても(というより、あっさり自白してしまうからこそ)、芝居としての物語が終わっても観客の中に謎が残り続ける。
というか正確には「謎が手渡される」と言った方が良いかもしれない。

本作は渡来が6人の人物たちに個別に会いに行く、ということで、各人10分から15分程度の1対1の対話形式のセリフ劇になっている。
構造は(原作がシリーズ物の連載短篇だったということもあり)同じで、要するに、「自分が満足した生活を送れないのは、自分以外の要因だ」と言い訳を繰り返すだけの各人に対し、ある種のノーブルさで対峙する健也が最終的に「じゃぁ、死ねばいいのに」と(藤子不二雄A氏の漫画『笑ゥせぇるすまん』の「ドーン」と同じように)「決めゼリフ」を放ち、各人を絶望の底に突き落とす、というものだ。
「自分以外の要因」とは、社会、会社、友人・知人、家庭環境……といったことで、自分では大した努力もせず(というか、責任転嫁する理由があるから努力する必要がない。もとより「どうせ努力しても、何か自分以外の要因で上手くいかないに決まっている」と言い訳が先に立つ)、他人を妬む。

つまり、各登場人物は「責任転嫁しているが故に人生が上手くいかない」にもかかわらず「大した努力もしていないくせに上手くいって(或いは上手くやって)いそうな人(つまり、鹿島亜佐美こそがその象徴)」に醜悪すぎるほどの嫉妬心や執着心を抱いている、ということを詳らかにする。

人間誰もが持っている(だろう)「死ねばいいのに」と思うほどの「業」を暴き出す、これだけでも「エンターテインメント」としてよく出来ているが、物語の真骨頂は犯人が自白した後にある。

「そんなに絶望しているのに何故死なない(=生きている)のか」を問うていたと思われた健也の言動は、犯人があっさり自白することで、「何故死んだのか」という問いに鮮やかに変貌する。
そのことにより、我々観客は舞台上の健也から「彼女は死んだのに、何故あなたは生きているのか」と、7人目の人物として問われてしまう。
だが物語はここで終幕するため、これまでの人物と違い、観客がそれ以上健也から問い詰められることはない。
だから観客は各々の心のうちで健也と対峙しなければならない。
果たして我々は、自分の心の醜さを認め、「じゃあ死ねばいいのに」と自身を断罪することができるだろうか?

アフタートークのゲストとして登壇した原作者の京極氏は言った。
「健也に『死ねばいいのに』と言われた人たちは、生まれ変わってやり直したと思うんですよ」
つまり、本作は「私たちはそれでも生きていく」という希望の物語であった。

メモ

舞台『死ねばいいのに』
2024年1月26日。@紀伊国屋サザンシアター TAKASHIMAYA(アフタートークあり)

本文に書いたとおり原作は2010年刊行であり、アフタートークで京極氏が語ったところによれば、「日本上陸を果たしたiPad初の電子書籍としても販売されることになり、発表会見を開いた」そうである。
つまり、その時点でスマホやSNSは普及していなかった。
2024年上演の本作がどこまで現代に合わせているのかわからないが、原作刊行当時にはなかったはずのSNS文化を予見している内容となっていた。
私がそう感じたのは、健也が始めから、あらゆることを「エクスキューズ」している点が気になったからだ。
彼は最初から「無知で教養がなく世間のことも良く分からず、態度も言葉遣いも悪い」とエクスキューズし、相手から何か問われたり責められたりしても、その一点張りで押し通してしまうことにある。
その一点張りはある意味「無敵の言葉」(本文では「ある種のノーブルさ」と書いた)であり、故に相手は最初から全く勝ち目がない状態で闘いの場に無理矢理連れ出されてしまう。
健也は自分が設定したルールであるが故に最初から勝つとわかっている試合で、相手を容赦なく正論で糾弾し、最終的に「死ねばいいのに(何故死なないのか?)」とノックダウンさせる。
現代のSNSも、まさにこの構造と同じで、だから匿名性というよりは、健也と同じように誰もが最初から「エクスキューズ」した状態だから「正論」で容赦なく糾弾できるのではないか。
私が最初から最後まで健也に共感出来なかったのは、まさに「相手と対峙する前にエクスキューズで勝ち名乗りを上げてしまう」、その一点によるものだった(物語上それらは、ある意味において結末の伏線でもあったのだろうが、本文に書いたとおり、物語自体が観客個々に手渡されてしまった以上、私にとってその伏線は情状酌量の理由にならない)。

さらに言えば、「死ねばいいのに」と言われるほど醜態を晒す人たちが死なず、その人たちが嫉妬や執着の炎を燃やした鹿島亜佐美が理由もわからず死んでしまったというのも、現代のSNS文化として読み取れるのではないか。

ちなみに、本作、開演前のみ舞台写真撮影が許可されていた("note"でも、その舞台写真付きで投稿しておられる方がいた)。
開演前の舞台上には、健也が対峙する各登場人物用のセットが全て配置されていた(しかも、傾斜10度(!)の八百屋(舞台奥が高くて傾斜になっている)舞台だから、舞台セットが他のセットの邪魔になることがなく、どの位置からも全てのセットが撮影できる)。
で、ラストシーンまでにそれらのセットは全て撤去され、何もない舞台になるという構成で、だから、終演後に盗撮しようとする人はいない(はず)。
何でもかんでも写真を撮りたがるのは「現代人の業」なのかもしれず、だからこれらの演出は、その「業」への対処策なのではないか、と穿ってみる。

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