舞台『逃奔政走』

2024年の東京都知事選。続投を目論む小池百合子現都知事が出馬表明する前に、蓮舫氏が出馬表明し、事実上、女性都知事の椅子を賭けて一騎打ちの状況を呈しヒートアップする東京のど真ん中、ここ三越劇場では、一人の女性が『"都知事"じゃありませんよ、"県知事"ですよ』と聴衆(観客)を軽く笑わせながら選挙演説をしていた。
女性の名は、小川すみれ(鈴木保奈美)。
舞台『逃奔政走とうほんせいそう』(冨坂友脚本・演出。以下、本作)の主人公だ。

クリーンなイメージと圧倒的な女性人気で当選した小川すみれ(鈴木)は、大ピンチを迎えていた。
知事室の中に豪華なシャワールームを作ったことが議会やメディアで追求され、「贅沢趣味だ」「税金の無駄遣い」と批判され始めたのだ。
無茶な答弁と屁理屈を駆使しつつ、あの手この手で言い逃れをはかる小川陣営。
この一見しょうもないスキャンダルに見える事件の裏には、より大きな政治とカネの火種が隠されていたのだった。
自分の理念と政治生命のため、なりふり構わず奔走する小川知事は、追求から、しがらみから、逃げ切ることができるのか?
そして小川知事の下した決断は…?

本作パンフレット「STORY」
(改行は引用者による)

本作は基本的にライトコメディーで、自責・他責によって次々降り掛かるピンチに対して、鈴木演じる小川すみれが『無茶な答弁と屁理屈を駆使しつつ、あの手この手で言い逃れをはかる』様を見せる物語である。
従って、人物造形や関係性、エピソードは全て類型的で、観客に引っかかりを感じさせず、気楽に笑って最後はスッキリ劇場を後にできる。

その舞台に政治を選んだというのがミソで、類型的な悪役である県議会のドン・山階(佐藤B作)を始め、「知事室にシャワールーム」「公邸での私的パーティー」などのエピソードが、「空想としての類型」ではなく現実のニュースや人物を想起させ、それが「ドタバタコメディー」にリアリティーを与えている。

そのリアリティーが近年の「政治の低レベル化、幼稚化」を浮き彫りにし、だからこそ、最後の『小川知事の下した決断』に観客が留飲を下げるのだが、果たしてそれでよかったのか?

先に『引っかかりなく』と書いたが、それは約130分の本作の中だけであって、そもそも騒動の原因が物語以前に起こってしまっている点は、とても引っかかる。
つまり、本作を描くに当たって、事前に問題の前提をご都合主義的に(シャワールームの問題を発起点にするだけのために再帰的に)召還してしまった結果、物語はその回収不能な伏線に振り回されてしまう。
だから物語は、「公約実現のために」「清濁併せ呑む」といった言葉や歴史上の人物・事件を持ち出し、自身を正当化しようとする。
しかし先述したように、物語の前提として物語自体が問題を召還してしまっており、物語とすみれは最初から自縄自縛じじょうじばくの状態にある。
結局、物語=すみれは自縄自縛を解けず、全てを放り出しまう(だから本作はこの物語及び作家の執筆自体のメタとも言える)。

全てを放り出してしまった物語が破綻しなかったのは、『小川知事の下した決断』が強烈な政治批判になっているのと同時に、諦めきった結果としてそれを容認してしまっている大衆(観客)に対する批判にもなっているからだ。
この手腕は見事で、結果的に観客の目には、物語の内外において「小川すみれ=逃奔政走」が志を全うしたように映る。

私が観劇したのは、投票日前日の2024年7月6日ソワレ(夜公演)。
劇場に向かう時間には激しい雷雨だった(らしい。私は下北沢でマチネ(昼公演)の芝居を観ていて、そのまま地下鉄で三越劇場に来たので、外の様子はわからない)天気も、終演後は物語の結末同様、スッキリ晴れていた。
恐らく、観客たちは観てきたばかりの芝居を思い出しながら、翌日の選挙に思いを馳せていたに違いない(もちろん私も)。

メモ

舞台『逃奔政走』
2024年7月6日 ソワレ。@三越劇場

翌日の都知事選。
冒頭に書いたような一騎打ちにはならず、現職が2位、3位の候補者の票数の合計と同じ程度の得票数を集める圧倒的強さを見せ、三選を果たした。

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