ナイロン100℃公演 舞台『江戸時代の思い出』(ただのデタラメ)

そう、なんにもないってことが目標なんですよ。なんにもないところから始めて、なんにもないところに行き着きたいなっていうのがあるんです。

ナイロン100℃ 結成30周年記念公演 第二弾『江戸時代の思い出』(以下、本作)で、劇団の主宰者であり作・演出のケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、KERA)がそう語る作品に、何か云おうという私自身に対して、ナンだかなぁと思う(それは単に私個人のことであることに留意)。

そもそも『江戸時代の思い出』というタイトルで、江戸時代の人が数百年後の21世紀を「思い出」として語るという設定の物語は、既に何かを語る/考える上での「前提」を決定的に欠いていて、だから本作について何かを書くということは、その「前提」を「創造」(想像ではない、想像するには「前提」が必要だ)或いは「捏造」する必要があるのではないか。

本作は、一応、三話の物語から成るオムニバスで、各話の間に箸休め的コント(実際はそう云う類のものではないかもしれない)が挿入される形式で展開する。
オムニバス形式でいえば、たとえば『絶望居士のためのコント』(2000年。とはいえ、これはKERA以外の作家を含めたコント集であって本作のオムニバス形式とは異なるが)とか、箸休め的コントといえば、たとえば『アリス・イン・アンダーグラウンド』(1996年。その、私が云う『箸休め的』というのが「グループ魂」のコント(歌ではない)だったりする)を彷彿させる(というのは、完全に個人的な感想でしかない)。

で、本作は、パンフレットによると台本に『別役実、宮沢章夫、両氏にー』と献辞があるとのことで、そうすると両氏を無視して語れるのか……みたいなことを考えてしまうのだが……まぁそれは、わからないものはわからないと開き直って、無視するしかないのかもしれない。

ということで、本作はKERAの言うとおり、『なんにもないところから始めて、なんにもないところに行き着』いた結果、結局「それがある」という不条理に帰結するというとんでもなく壮大な物語だ。

本作は、物語の構造を壊し、
物語とセリフの関係性を壊し、
セリフの言葉とその意味の関係性を壊し、
(私の云う「箸休め的コント」によって)舞台と観客席の関係性を壊し、
それによって観客と劇場の関係性を壊し、
劇場の「今、ここ」と舞台上の「江戸時代」の関係性を壊す(つまり、「観劇している今、ここ」と演じている「今、ここ」の関係性が歪んでリンクしてしまう。通常は、そこに関係性がないから観客は安心して舞台上で演じられているものに没頭できる(たとえ舞台上から観客に何かを求められたとしても、それは「物語上」という共通了解のもとで展開するが、本作は実際に、観客にライトが当てられる。で、最終的にそれが外されるのが面白いのだと思う(上述しているとおり、本作に「前提」がないので、何も言い切ることができない)のである)。

で、そういう(意図しないことを意図した)種々の破壊によって観客は、逆説的に物語には構造があり、物語とセリフには関係性があり、観客と劇場には相応の関係性があることに気づく。
意味もわからず、その場で起こったことに反応して何度も笑った私はふと帰りの電車で呟く。
「なんて恐ろしいんだ」

メモ

ナイロン100℃ 結成30周年記念公演 第二弾
舞台『江戸時代の思い出』
2023年7月6日 マチネ。@本多劇場

冒頭に書いたとおり、本作に対して『何か云おうという私自身に対して、ナンだかなぁと思う』ので、「ナンだかなぁと思う」ように何も考えずに書いた(というか、別に狙ったわけではないが、たまたま酔って書いていただけ)。

KERA氏が言及しているとおり、本作の現代パートでタイムカプセルが30年前に埋められていたのは『結成30周年にかけている』からであるが、その長さの重みは、今年に入っての辛いご不幸事にも現れている(本作はそれを直接は表現していないが、タイムカプセルが素直に出てこないで別のモノがでてくるというところで、演者側の意図に拘わらず、やっぱり少し想起はしてしまう。それは決して悪い事ではなく、むしろ良かったのではないかと申し添えておく)。

そういった意味において、本文でも指摘したとおり、本作はある意味『別役実、宮沢章夫、両氏にー』捧げられたものであり、パンフレットでもKERA氏が宮沢氏に言及しているところが多かったように思う。
私個人で云えば、20世紀末からずっと「シティボーイズMIX」を観続けてはいたが、やっぱり、ラジカル・ガジベリビンバ・システムを観ていないことは、恐らくずっと引きずるんだろうなと思う。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?