舞台『エゴ・サーチ』

舞台『エゴ・サーチ』(鴻上尚史作・演出。以下、本作)について何か書こうとして悩んでいる。
幽霊が出てきたりはするものの、それなりに筋の通ったストーリーがあり、納得できる結末もある。
だから、ストーリーを説明しようとすればできそうなのだが、実際に書いてみると「そんな話だったっけ?」と、ストーリーと自分の印象の乖離に気づく。
それは、私の物語に対する理解力と説明するための能力が足りないのが原因かもしれないが、それ以上に本作が「寓話的」だからではないのか……と自己弁護してみる。

本作は、鴻上氏が若手俳優たちと立ち上げた「虚構の劇団」の公演として、2010に初演、2013年に再演された作品で、再々演の今回が初めての劇団外公演となる。
私は全ての公演を観ているが、再演の時も今回も、事前にストーリーが思い出せなかった(だから、今回、幽霊として現れた小田切美保がクミラーの口を借りて広瀬隆生の記憶を呼び覚ますシーンで感動したのだが、それが作品として以前から感動していたのか、美保役の吉田美月喜の演技が良かったのか、今回の演出が良かったのか、全くわからない。しかし、今回感動したのは確かだ)。
それはつまり、私が物語の中の寓意があると思って、それに気を取られていたからだ……と自己弁護してみる。

長々と言い訳したが、とにかく、だから、本稿は内容の説明になっていない(はず)。


本作の主題として一つ言えるのは、本作が小山田咲子さんという女性に捧げられていることだ。そして、既に亡くなっている彼女の存在自体ではなく、意思(意志)を残そうとしていることだ。

劇中で小説家志望の主人公が書く物語の一節、『恋人の前で、泣くことと歌うことと謝ることをはずかしがらない、というのは私のちっぽけにして最大の哲学だ』は、咲子さんが生前書いたブログの文章である(とても素敵な文章だ)。

上記を含め、彼女が残したブログの文章は、『えいやっ!と飛び出す あの一瞬を愛してる』(海鳥社)というタイトルで出版された本にまとめられている。
その経緯については、本作パンフレットに収録された彼女の実弟・小山田壮平氏(ex.andymori)と鴻上氏の対談でも触れられているが、本稿では、『鴻上尚史のごあいさつ 1981-2019』(ちくま文庫、2020年)に所収された『エゴ・サーチ』再演の「ごあいさつ」の後、文庫化の折に追記したコメントを引用する。

小山田咲子さんは、僕が早稲田大学の客員教授をしている時に、TA(ティーチング・アシスタント)という立場で助けてくれました。
学生が務めるアルバイトの一種なのですが(略)
最初は知り合いの教授からの推薦だったのですが、話すうちに「なんて聡明な女性なんだ」と感動しました。
彼女は小さくて、エネルギッシュで、陽気で、歌と文章がうまい女性でした。
(略)
その彼女が、2005年、24歳の時にアルゼンチンで交通事故で亡くなりました。
残されたのは膨大なブログでした。
絶対に本にして出版すべきだと、僕は御両親に言いました。お二人もそのつもりのようでした。
そして、本は出版され、今も読み継がれています。


さて、「エゴ・サーチ」という言葉は、本稿で説明する必要がないくらいメジャーな言葉になった(初演時は一般的ではなかった)が、イメージとしては、どちらかというとネガティブな行為として受け止められているように思う。
それはSNS等が普及して、誰もが事情を深く知らない見知らぬ他人のことについて軽い気持ちで書き込みができるようになり、さらにその書き込みの多くが「感想」「意見」という名の「批判/非難」になってしまったことに起因するのではないか(私はSNSをやっていないし、自身の「note」原稿以外のネット書き込みをほとんどしないので、詳しいことはわからない)。

本作はそういった風潮に対してではなく、「『リアルが現で、ネット空間は偽あるいは仮』という認識は真実なのか」、もっと言えば、「『私』とは何か?」という根源的問題を扱っているのではないか。

今、現実世界で『私』が考えていることは本当に私自身なのか。
ネットに書かれている(あるいは自身で書いた)ことは、「恣意的に作られた(作った)もの」、あるいは「客観的に書かれた(書いた)もの」であって、「真実(=確かに自身であると確証できる内面的自身)ではない」と言い切れるのか?
本作は、主人公の存在を通して観客にそう問うているのではないか?

そう考え始めると、物語以外のところにも思考が広がっていって、結末(結論)に収束するどころか、どんどん発散していくような気がしてくる。
鴻上氏の作品は、物語だけを追ってさらっと理解した気になる(もちろんそれで全然構わない)が、実は上述のとおり考え始めると発散してしまって知恵熱出そうになるものも、結構多い。
だから、何か書こうとすると、かなり悩む。


メモ

舞台『エゴ・サーチ』
2022年4月23日。@紀伊国屋ホール

本作、男性2人+女性1人という「ドリカム」あるいは「いきものがかり」の関係性を主軸にしており、さらにその3人が「屋上」に集うシーンなどから、鴻上氏の代表作の一つである『トランス』(及びその続編ともいえる『ハルシオン・デイズ』)を想起することができる。

屋上とその外側は柵を境に「生/死」を分けるのだが、両作においては「真/偽」「正/仮」などを分けるメタファーとして使われていると思われる。
『トランス』では、不明なままの「真/偽」「正/仮」が、柵の内側で仲良くピクニックをしている。
『ハルシオン・デイズ』は境界の狭間で「偽」が「正」に転化する。

本作では「真/偽」(「正/仮」)が先を競って柵の外側に飛び出そうとする。
そして「真」と観客が思う方が柵を越えてしまうのだが、これは別にネタバレではなく、大事なのはその(観客が思う)「真/偽」の行方・結末だ。

と、尤もらしいことを書いてみたが、何一つ自分の中で考えていることが書けていない、そんな気持ち悪い感触が残る……

以前書いた鴻上氏の舞台に関する拙稿でもそうだった。
いつも『何か書こうとして悩んでいる』のだった。



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