100年以上前からのバトンを引き継ぐ~植松三十里著『帝国ホテル建築物語』~

もう10年以上前のことになるが、JR有楽町駅~新橋駅間のガード下にあった飲み屋によく通っていた。
その界隈には、帝国劇場、日生劇場、東京宝塚劇場、シアタークリエ、日比谷野外音楽堂、少し歩いて東京国際フォーラム……などがあり、芝居やライブの後に利用していた(まぁ、その間に東京宝塚劇場に行ったことは、たぶんない)。
店は帝国ホテルの近くにあり、そこに宿泊している人たちもいたと思う(帝国ホテルの宿泊客かはわからないが、外国人もよく見かけた)。

私は帝国ホテルには入ったことがなく、その店への目印という認識しかない。
だから、立派なビル様のホテルが、かつては有名なアメリカ人建築家であるフランク・ロイド・ライト氏によって大正時代に設計された、日本を代表する洋館ホテルだったことは、知らなった。

この洋館ホテルは完全に無くなったわけではなく、愛知県にある「明治村」という施設に、中央玄関のみではあるが移築・「様式保存」されている。
植松三十里みどり著『帝国ホテル建築物語』(PHP文芸文庫、2023年。以下、本書)は、その移築話が突然沸き起こったところから始まる。
そして、明治後期~大正時代、帝国ホテル支配人・林愛作あいさく氏がライト氏と出会い、ホテルの設計を依頼し、実際に完成に至る物語に遡る。

大変な親日家でもあるライト氏の建物には、どこか日本家屋や日本文化の影響が見てとれるという。
2011年3月28日にWOWOWで放送された『たてものがたり フランク・ロイド・ライト』というドキュメンタリー番組において、ロイド氏が6000点もの浮世絵を収集し、自身が設計する建物のデザイン画の画法にも浮世絵の影響が見てとれると指摘されている(ちなみに、林氏は支配人になる前、マンハッタンでアジア系の高級骨董品店に勤めており、ロイド氏とはそこで出会った、と本書に書かれている)。
そう書くと、アーチスト的建築家というイメージが湧いてくるかもしれないが、実際の彼は「施主せしゅファースト」で、施主が希望する予算や工期を出来る限り尊重する人であったようだ。
しかし、ではなく、だからこそ、大正初期、これから本格的に欧米列強と肩を並べようと意気込む日本の「迎賓館」として位置づけられる帝国ホテルには、一切の妥協をしなかった。
そのため、言葉が通じないこともあり、日本の職人と対立し、工期は延び、費用は膨張し続けた。
本館が火災に遭うなどの不幸も重なり、幾度もロイド氏の解任や設計変更などの話が持ち上がるが、その度に林支配人やロイド氏の助手兼通訳でもある遠藤あらた氏の必死の尽力によって、ロイド氏による建設が継続されていく。
そうしていくうち、当初は日本にはない技術を強要され、できなければ英語で叱責される上、度重なるロイド氏の気まぐれとも思える理不尽なやり直し指示に反発していた職人たちも、自分たちの仕事の意味を理解し始め、積極的に作業に取り組むようになる。
しかし、本館が2度目の火災に遭い死者が出たとき、林支配人や大倉理事長を含め重役は辞職し、ロイド氏自身もまた、元々彼に良い印象を持っていなかった経営陣たちによって解任されてしまう(その時には彼と職人の間には信頼関係が出来ていて、だから、彼が帰国するときのエピソードには胸を突かれてしまう)。
本書はその様子をフィクションで振り返るが、林支配人を含め、ほぼ史実に基づき実名で登場する。

さて、日本側におけるロイド氏への不信については、先述した問題以外にプライベートなスキャンダルも大きく影響している。
遠藤氏は、大倉喜八郎理事長からこう尋ねられる。

「(略)ライトについて嫌な噂を聞いた。なんでもライトは何年か前に、家の設計を頼んだ施主の妻を寝取って、ヨーロッパに駆け落ちしたそうだな」
その話だったかと、新は思わず目を伏せた。大倉はかまわずに話し続ける。
「それからは最初の女房と別れて、駆け落ちした女を内縁の妻に据えた。だが奉公人がその女を嫌って、子供ともども斧で殴り殺し、住まいに火を放った。そんなことを耳にしたのだが、本当かね」
(略)
「たとえ私生活で何か起きたとしても、建築家は作品がすべてです。それ以外のことで評価すべきではありません」
「だがライトはアメリカで悪い噂が立って、仕事がなくなった。それで日本に稼ぎに来たのではないのか」

それは噂ではなく(もちろん全く正確というわけではないが)事実であり、ロイド氏の評判は、アメリカでは地に落ちていた。

もちろん彼は、アメリカでダメになったから日本に稼ぎに来たのではなく、林支配人に懇願されて設計を手掛けたわけだが、結果的に帝国ホテルが、その完成を見ることなく解任されたロイド氏にとって母国で名声を取り戻すきっかけとなった。

大正12(1923)年9月1日、ライト館の全館開業の祝賀会が開かれる予定だったその日、関東大震災が起こった。多くの建物が損壊し、火災などもあり多くの死者が出た。

(遠藤)新は目を見張った。一面の焼け野原の先に、帝国ホテルだけがそびえていたのだ。

この事実はロイド氏のいるアメリカでも大々的に報道された。

何故、ライト館は(一部損傷があったものの)無事だったのか?
その理由の一つが、建物の「基礎」にある。
帝国ホテルのある日比谷一帯が江戸時代に入江(日比谷入江)を埋め立てて出来た土地であり、地盤が緩かった。

するとライトが意外なことを言い出した。
-いっそ浮き基礎にしてみたら、どうだろう-
浮き基礎はシカゴで始まった工法だった。(略)
ライトは自信ありげに言う。
-日本は地震が多いから、むしろ、その方がいい-
基礎を深い岩盤まで到達させると、大きな地震が来た場合、途中の粘土層の揺れが、岩盤とは異なる動きとなり、建物を激しく振動させる。それなら逆に短い浮き基礎で、粘土層の揺れに建物をゆだねるべきだという。

この、当時の日本では知られていないどころか、アメリカでも最先端技術だった工法を採用したことも、経営陣がロイド氏を不審に思う要因の一つだが、奇しくも彼を解任した後、その選択が正しかったことが証明されることとなった。

物語の最後は、プロローグであった昭和42(1967)年に戻る。
当時の佐藤栄作首相が訪米の際に口約束してしまった「ロイド館移築」を実行に移すよう打診されていた建築士の谷口吉郎よしろう氏は、逡巡の末、中央玄関のみ、しかも、それとて完全には移築できないが、明治村で「様式保存」しようと決意する。
昭和51(1976)年に外観のみが公開され、昭和60(1985)年、ようやく内部公開するに至った。
内部公開を待たず亡くなってしまった谷口氏は、自身の仕事について、こう振り返っている。

様式保存を引き受けると決めてから、わかったことがある。ライト館には建築関係者だけでなく、準備段階から林愛作や大倉喜八郎が関わっていたのだ。
志ある男たちが入れ替わり立ち替わり、この巨人に携わってきた。谷口は自分が、そのひとりに過ぎないと自覚した。

そして物語は、こう結ばれる。

すさまじい力を放った巨人は、今は明治村の北端で静かにたたずんでいる。「明治村に持っていけば幸せだと思う」と語った佐藤栄作もまた、男たちのバトンを引き継いだひとりだった。

そして現在、作者の植松氏や我々読者もまた『バトンを引き継いだひとり』である。


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