進化してんのか退化してんのか~舞台『ガラパコスパコス』~

舞台『ガラパコスパコス~進化してんのかしてないのか~』(ノゾエ征爾作・演出。以下、本作)に意味もわからず感動してしまったので、「いわゆる感想」を書きたいと思った。
意味がわからない上での「いわゆる感想」なので、読み始めて下さった奇特な方には大変申し訳ないのだが、恐らく本稿の意味はわからないと思う。

コンピュータの世界で負の数を扱う場合、データの一番上の桁(最上位ビットと云うらしい)で正負を判別するらしい。だから、データの扱いを間違えると、数を加算してどんどん増やしているはずが、いつの間にか数が減っていることになってしまうらしい。
などと、良く知らないことを書き始めてしまってどうするつもりなのか自分でもわからなくなったので、とはいえ、折角書いたのだからこのまま残して話題を変える。

本作、他人とのコミュニケーションが超苦手で会話はおろか目すら合わせられない主人公(竜星涼)が、特別養護老人ホーム(特養)から脱走(?)してきた痴呆気味の老女(高橋惠子)を家にかくまったことにより、主人公の兄夫婦(藤井隆・山田真歩)と二人にまとわりつく男(ノゾエ)、老女の娘(家納ジュンコ)と孫(中井千聖)、特養の職員(柴田鷹雄・山本圭祐・山口航太)、主人公の上司(青柳翔)・新入社員(芋生悠)、高校時代の同級生の女子(瀬戸さおり)と結婚した当時の担任教師(菅原永二)、隣人(駒木根隆介)らを巻き込んだ大騒動に発展する、というストーリーだ(キャスト全員入っているか心配だ)。

舞台は八百屋(舞台床に傾斜がついていて奥が少し高くなっている)で、客席側以外の三方が高い壁に囲まれている。その下手(舞台向かって左側)奥にコンテナ状の箱があり、客席側の壁が上下し、そこから俳優が出入りする(一部、コンテナの別の壁からも出入りする)。とはいえ、「入る」俳優は限られており、本作パンフレットの瀬戸さおりのコメントに『この戯曲では冒頭のト書に「基本的に、役者は、一度舞台に出たらはけない」とあります。つまりほぼ出突っ張り』とあるとおり、自分の出番ではない俳優は、壁際の所定の位置に留まっている。

……おっと、これは感想ではなさそうだが、とりあえず自分の記憶で書いているので、ある意味「感想」ということで、このまま残して話題を変える。

と言ったそばから、一つ大事な事を忘れていた、と説明を続けるのだが、壁と床は全面黒色…というか、ズバリ「黒板」になっていて、小道具が限りなく無いに等しいなか、その代わりに、俳優自らがチョークで文字や絵を書いてゆく。
それが、まぁ身も蓋もない言い方をすれば「壁画」そのものなのだが、古代のそれと明らかに異なるのは、「文字」は言語(言葉)であり、「絵」は記号であるという点で、つまり、ここに「(人間の)進化」を見ることができる。

物語の進行に従って、壁や床は文字や絵でいっぱいになる。一見、その場その場の状況に合わせて書かれたもののように思われるそれらはしかし、芋生悠演じる新入社員が主人公を救う方法をネット検索で得ようとし、『既存の中に答えを探す』というセリフを発したとたん、検索サイトの検索結果という「一つの意味」に変質してしまう。
つまり、舞台全面が「意味そのもの」になってしまう。
それと対比されるように、それらを書き連ねたはずの人々は、(劇中の)現実の中で意味ある言動やコミュニケーションがとれず、結果として、物語はディストピアに向かう。
現実の中に文字や絵による「意味」が出現したのは、20世紀最大の「進化」であったともいえる。しかし、21世紀の今、それらが「進化」を続けるなかで、人々は同じリズムとメロディーが繰り返されるボレロ(ラヴェル)をバックに「死の行進(デスマーチ)」を続ける。
「デスマーチ」というのはコンピュータ用語でもあるが、つまり、「進化」し続けているはずが、いつの間にか「最上位ビット」の符合が変わって、「負の進化=退化」になっているのではないか(と、冒頭の辻褄を合わせてみる)。

人々がボレロをバックに死の行進をする中、主人公は、(結果的に)老女を誘拐してしまった、ということの「責任」を取るため、警察に出頭することを決意する。
警察に出頭するということは厳しい取り調べが待っているということであり、それはつまり、これまで誰とも言葉を交わさずコミュニケーションも取らなかった主人公自らが、「言葉とコミュニケーションを獲得する」という「進化」を選んだことを意味する。

では、対して、(例外はあるものの一般的に)老いと共に痴呆になる、ということであれば、痴呆が進んだ老女は「進化」したと言えるのか?
そもそも「老い」は「進化」なのかというのはさておき、その果ての痴呆はやはり「最上位ビット」の符合が入れ替わったとは言えないのだろうか?

延々と続く死の行進というディストピアで幕を下ろすかと思われた本作は、物語序盤からバスに乗りたくて乗れないというのを散々繰り返した老女の孫が飛び出してきて、ようやくバスが停車する展開となる。
彼女と共に、死の行進を続けていた人々もバスに乗り込むのだが、私はここで鳥肌が立ってしまった。
その時は意味がわからなかった。しかし、こうやって「感想」を書いてみて、何となくわかった気がする。
私には、そのバスが「箱舟」に見えたのではないだろうか。

鳥肌が治まったのは、バスの中でみんなが歌うのを聞きながら、「その歌、必要?」と思ったからなのだが、そう思った次の瞬間、私はまたもや鳥肌を立ててしまったのだ。
その意味は、未だわからない。

メモ

舞台『ガラパコスパコス~進化してんのかしてないのか~』
2023年9月20日 ソワレ。@世田谷パブリックシアター

本文では「検索サイト」までの「進化」を書いたが、本作はChatGPTなどの「対話型AI」まで「進化」しているのではないか。
主人公が舞台一面に書かれた文字を拾い出してある意味での「種明かし」をするのだが、それを我々が「種明かし」だと思えるのは、一見無関係に思えた文字に、我々自身が「意味」を見いだすからだ。
それは、「対話型AI」が「意味」ではなく「確率計算」によって導き出した言葉や記号の羅列から、「本当の意味」を見つけ出すのは「人間にしかできない」、つまり本作は、主人公に「更なる人間の進化」への希望を託した、ともいえるのではないか。

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