父と娘、素敵なボクシング物語~映画『DitO』~

少し前、映画『オヤジファイト』(三島有紀子監督、2015年)の感想に『ボクシングは男のロマン』と書いた。
映画『DitOディト』(結城貴史監督、日本・フィリピン、2024年。以下、本作)の男も「男のロマン」を生きている。しかも、妻子を日本に残し、一人異国で。

日本に妻子を残し、異国の地・フィリピンで再起をはかるプロボクサー神山英次(結城貴史)。
ある日、神山の前に一人娘の桃子(田辺桃子)が現れる。
再会した父と娘は衝突しながらも徐々に親子の絆を深めていく。
そんな中、40歳を迎えた神山に、ラストチャンスとなる試合の話が舞い込んでくる──。

異郷で、今を生きるための居場所=「DitO」を求め、紡がれる"父娘"の絆と再生を描く圧巻の人間ドラマ

本作パンフレット「Introduction」(抜粋)
(俳優名は引用者追記)

ボクサーとしては高齢の英次(やっぱり「Age」に係っているのだろうか?)は、フィリピンのボクシングジムで対戦のオファーもないまま、現地の若者のトレーナーを務めながら、日々練習に励んでいる。
そこへ、日本から母(英次の妻)・ナツ(尾野真千子。出演時間は少ないながらも、さすがの存在感)を病気で失って独りになった娘・桃子がやって来る。もう、日本には戻らない覚悟で。

英次が日本を離れてまで求める「ロマン」、それ自体を本作は直截的には描かず、彼を慕う現地の若いボクサー・ジョシュア(ブボイ・ビラール)と対比させる。
桃子と同じ17歳のジョシュアは、8歳の頃から「(プロボクサーになって)家族を養うため」ボクシングを始めた。

パンフレットで結城監督は語る。

フィリピンではボクシングが貧困から抜け出して夢を叶える手段の一つになっていて、(本作舞台の)エロルデのような有名なジムのトライアウトに合格すると、生活場所と食事が保障されます。フィリピン中からエロルデジムに集まってくる若いボクサーたちがどんな思いで日々戦っているのかに興味が湧きました。

デビュー戦から5連勝のジョシュアはジムの期待のエースだったが、6戦目で強烈な敗北を喫し、故郷の父が亡くなったこともあってボクシングを辞めてしまう。
彼は言う。『痛いからじゃない。次負けたらって考えるだけで、僕が僕で無くなってしまう。それが怖い』と。
それに対して英次は言う。『俺は、負ける事よりも、辞めて、そこから逃げ出してしまう事の方が……』と。

妻子を日本に残してボクシングをしながら世界中を転々としてきた英次はしかし、ボクシングを辞めることもできず、かといって対戦相手を求めて次の場所へ行くこともせず、中途半端な気持ちでフィリピンに3年も住みついている。
そこへ、日本から娘が独り、もう戻らないつもりで父のもとを訪ねてくる。

本作における観客(=カメラ)の立ち位置は「セコンド」でもあるがしかし、私はやっぱり「レフリー」ではないかと思う。

本作序盤、日本から来た桃子を自宅へ案内した英次は、桃子を映すカメラの後ろに回り込み、奥のスペースを片付け始める。彼が物を移動させる音は、観客の背後から聞こえる。つまり、カメラ(=観客)は二人の間に立っている。

本作は父娘の確執と和解を描いたものではない。
冒頭の桃子の表情は父との確執を表したものに見えるが、それが誤解だということが徐々に明かされる。
彼女は亡き母から、父の口癖(というかポリシー)である「恐れるな、うつむくな、拳を上げろ」と教え込まれてきた。
そう、母を失い孤独になり父を求めて言葉も通じない異国の地に降り立った彼女は、「恐れるな、うつむくな」と自分に言い聞かせながらここにたどり着いたのだろう(この意味がわかったとき、私は田辺桃子という俳優の素晴らしさに気づいた)。

つまり、この父娘には最初から確執なんてなかった。
本作で描かれるのは、父・娘ではなく、それぞれ一人の人間として、相手に、人生に向き合う、ということだ。

どっちつかずの曖昧な「ぬるま湯」に浸かってしまった父の前に、もう戻らないと覚悟を決めた娘が立っている。
「男のロマン」だろうが、そうでなかろうが、父は娘と真剣に向き合わなければならない。
我々観客は、二人の間に立ち、両者がフェアに、真摯に向き合うのを冷静に、卑怯な手を使ったり不当に逃げることを許さない鋭い視線を持って見届けるレフリーとして存在する。

そして、その「レフリー=観客」が最終的に目にするのは、父娘の「居場所(タガログ語で「DitO」)」である。

あゝ、気持ち良い試合を観た。

メモ

映画『DitO』
2024年8月7日。@ヒューマントラストシネマ渋谷

本作、ボクシング好きにはたまらないのが、特別出演しているあのフィリピンの英雄・マニー・パッキャオのスパーリング姿が見られることだ。
彼のスパーリングはもちろんだが、ジョシュアのボクシングシーンは身体が熱くなる(前のめりになりそうなのを抑えるのが大変だった)。

私はずっと、劇中の、たった1回負けただけでボクシングを辞めてしまったジョシュアが言った『次負けたらって考えるだけで、僕が僕で無くなってしまう』という言葉の意味を考えていた。
もしかしたら彼は、『次負けたら』英次と同じように『負ける事よりも、辞めて、そこから逃げ出してしまう事の方が……』と考えて、(英次と同じように家族を顧みることを忘れ)ボクシングを辞められなくなる、それが怖かったのではないか。


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