舞台『宝飾時計』をミュージカル『ピーターパン』から妄想する

「どうして泣いているの?」

彼女から相手役に発せられたセリフを聞いて、ドキッとした。
このセリフはかつて、彼女が10代の頃に相手役の少女から問われたものだ。
その時、彼女、いや彼は、分離してしまった自分の「影」が元通り、自分にくっついてくれない絶望で泣いていたのである。

舞台『宝飾時計』(根本宗子作・演出。以下、本作)も、自分と自分の「影」が分離してしまったことによる絶望が描かれているのではないか。

本作は、「同一空間でリアルタイムに演じられる」という舞台の特性を最大限に生かしている。
回転舞台を使いながら、現在といくつかのフェーズの回想(過去)が「演劇的ギミック」により「同一空間でリアルタイム」に演じられていただけだったはずの物語が、一幕の最後でそれらが本当に「同一空間のリアルタイム」に接続されていたことが明かされ、二幕において、本当の「同一空間のリアルタイム」な物語を観ていると観客が知った状態で、一幕が語り直される

冒頭に挙げたのは、本作主演の高畑充希も主演経験があるミュージカル『ピーターパン』での、ピーターパンとヒロイン・ウェンディの最初の出会いのシーン。
私はこの"note"にも『ピーターパン』の拙稿を書いたことがあるし、もちろん高畑ピーターも観ているので、『ピーターパン』を基に本作を考えてみようと思う。


あらすじ(妄想にあらず)

本稿を補助するため、パンフレットに掲載された「あらすじ」をそのまま引用しておく。

10歳から29歳まで、奇跡の子役として、ミュージカル『宝飾時計』の主役を演じてきた松谷ゆりか(高畑充希)は、30歳となった現在も女優として活躍している。
当時はなぜだか背が伸びず、精神年齢も妙なところで止まっているものの、1年前にマネージャー・大小路祐太郎(成田凌)が現れ、今は恋人となった彼との将来を考えていた。
そんな時、プロデューサー・滝本伸夫(八十田勇一)から連絡が入り、20周年記念公演でのカーテンコールでメイン曲を歌ってほしいとの依頼が入る。ゆりかは作品の初代キャストで、他には二人、主役を務めた同期がいた。板橋真理恵(小池栄子)は、IT会社社長と結婚し、マネージャー・関一(後藤剛範)には少々不満もあるが、今ではママタレントへと悠々と軌道修正。
いっぽう、かつては杏香ママ(池津祥子)の並々ならない後押しで念願の宝塚を目指していた田口杏香(伊藤万理華)は挫折して、勝気な子供時代とは打って変わり、家に閉じこもっていた。ゆりかはある狙いから、二人を招くことを条件にオファーを受けることにする。
実は、3人の子役時代、ある重大な事件が発生していた。それは、彼らの相手役・勇大(小日向星一)が、突然、姿を消したことだ。彼はこの世を去ったのだと皆がその死を受け入れる中、唯一、心を通わせていたゆりかは、どこかで生きているはずだと頑なに信じる。
幼少期、自分にとって特別な存在であった勇大と、現在の恋人であり将来を考えている相手である大小路、二人の間でゆりかの頭の中はいつも過去と現在を行き来していた。自分のために生きるのか、愛する人のために生きるのか、ゆりかの選ぶこれからの人生とは……。

「物語の構造」を妄想する

まず、本作の主人公・ゆりかが『10歳から29歳まで、奇跡の子役として、ミュージカル『宝飾時計』の主役を演じてきた』という設定は、「15~21歳まで主役の少年を演じてきた」高畑をそのまま想起させるし、最終盤での祐太郎という存在についても同様だ。

冒頭に挙げたセリフは、確か、ゆりかと祐太郎が出会ったシーンで発せられたと思うのだが、少年を演じていた少女が元の少女に戻り、大人の男性が少年になるという倒錯が起こっているとも考えられる。
そこからさらに、少年だけではなく少女も、本人と「影」が分かれてしまうという倒錯に至る。

それらを踏まえると、一幕のゆりかは本人ではなく「影」であり、衝撃の一幕ラストから続く二幕のゆりかは、分離していた「影」と接続された本人である、ということになる。

「何故、ゆりかは成長しないのか」を妄想する

「影」は本人がいてこそ存在するのであって、だから、分離してしまった「影」だけでは成長できず、『なぜだか背が伸びず、精神年齢も妙なところで止まっている』(同様に、ゆりかのもとに現れる勇大も、置いて行かれた「影」と考えられる)。

ゆりかの成長が再び始まるのは、一年前に祐太郎と出会ったことがきっかけだが、それは、不在だったゆりか(=ウェンディ)が祐太郎(=ピーター)とともに「ネバーランド」から戻ってきたことを意味する(既に見てきたように、ここでも「ネバーランド」と「現実」の逆転という倒錯が起こっていることに留意)。

物語は、一幕で「影」が語ったことを、二幕で接続された本人が語り直す構造になっている。
本人は生身の人間で、当然、血も涙も感情もある。
生身のゆりかは、祐太郎との関係が破綻することへの恐れから、本来なら彼(勇大?)に向けるべき(真実という)刃を、(真実と向き合えない自責で)自身に突き立て、体中から血を流しボロボロに傷ついていく。
観客は、高畑が(本当に)泣きながらボロボロになっていく様を、目を逸らすことも許されないまま目撃することになる(この圧巻の場面こそ、高畑本人が作演出の根本宗子に直訴して当て書きしてもらったことの意義であるし、観客が劇場に足を運び「同一空間でリアルタイム」を共有する意味でもある)。

「何故、勇大は消えてしまったのか」を妄想する

ところで何故、ピーターと「影」が分離してしまったのか?
子供部屋で母親が語る「おはなし」を、窓のところで盗み聞きしようとしていたピーターが、この家の愛犬ナナに気づかれて襲い掛かられたために「影」を置いて逃げたのである。
ネバーランドの迷子たちに教えてあげるためだったと説明するピーターは、ウェンディに尋ねる。
『ガラスの靴を落とした女の子は、どうなったの?』

『シンデレラ』は、ガラスの靴を置いて去っていったシンデレラを王子様が見つけ出す話だが、それができたのは、彼女の足がガラスの靴にピッタリ合ったからだ。
しかし、本作のゆりかは『靴、キッツ』
だから勇大(王子様)が彼女の靴を履いて無理矢理広げようとするのだが、それはシンデレラと結婚したいから、ではなく、靴が合わないとシンデレラの物語が成立しないから、である。
結局、ゆりかの靴は広がらず、『シンデレラ』の物語が破綻する。
破綻した物語は消滅してしまい、そもそも王子様(勇大)など最初から存在していなかったことにされてしまう。
だから、勇大は『突然、姿を消し』てしまう(つまり、ゆりかが後悔している『(靴は)どうせ合わない』という彼への最後の言葉は、物語=勇大を否定することにつながっている)。
しかし、「影」とはいえシンデレラ(ゆりか)が存在する以上、(シンデレラと出会えなくても、物語として成立しなくても、この世の)どこかには王子様がいる可能性も否定できない
その「可能性」こそが、勇大の「影」である。
つまり、『唯一、心を通わせていたゆりかは、(王子様=勇大が)どこかで生きている』という「可能性」を『頑なに信じ』ていたからこそ、勇大の「影」を見ることができたのだ。

「結末が意味すること」を妄想する

『ピーターパン』でのウェンディは、ピーターが歌う子守歌を聞いて両親が恋しくなり、弟たちと家に帰ることにする。
他の迷子たちも一緒にというウェンディの提案を、ピーターだけが拒絶し、ネバーランドに残ることを選択する。
ウェンディや迷子たちを見送った後、ピーターは一人眠りにつく。
次に起きた時には、ウェンディや迷子たちはいない。自ら選択したとはいえ、彼は置き去りにされたとも言えるが、ここでも、本作はピーターとウェンディを入れ替えて倒錯状態にしているのである。

そんなわけで、冒頭の高畑のセリフをきっかけに、『ピーターパン』の世界と接続してしまった私の妄想でここまで本稿を書いてきた。妄想だから、本稿に信ぴょう性は全くないことを、お断りしておく。
ちなみに、実際のピーターは、次に起きた時に孤独を感じるわけではない。ウェンディたちが海賊に捕まったことを知らせにきたティンカーベルによって叩き起こされるからだ。

「作・演出 根本宗子の世界観」を妄想する

それはさておき、本作、高畑充希のリクエストに応じたものとはいえ、「ネモシューワールド」炸裂ではないだろうか。と言っている私は、彼女の作品を多く観ているわけではないので、少ない知識からの感想でしかないのだが……

彼女の世界観は、「こんなどうしようもない世の中(或いは"私")だけれど、それでも生きていく」ということにあるような気がする。
彼女の考える「生きていく」を支えるのは、「食べること」と「他者」である。

本作でも、ゆりかが祐太郎との関係のよりどころにしているのは「彼に作ってもらう食事」であるし、楽屋に持ち込まれる崎陽軒のシウマイ弁当やコンビニのおでんの話なども然り。
『今、出来る、精一杯。』(2013年初演)は、炊飯器のご飯で始まり、スーパーのお弁当で終わる。
映画『もっと超越した所へ。』(山岸聖太監督、2022年)では、スーパーでお米を買う行為が一つのキーポイントになっている。

「他者」についての考え方が根本作品の特徴の一つでもあるが、それは、『今、出来る、精一杯。』で語られる『(他者の)メンドクサさを引き受ける』ことに集約できるのではないか。
本作のゆりかも、勇大に対し『私は自分の複雑さを理解できないが、勇大の複雑さを理解することを通して理解する』というようなことを言う(1度観ただけのうろ覚えなので、間違っているかもしれないが)。
つまり、根本宗子は「こんなどうしようもない世の中(私)だからこそ、面倒だろうと複雑だろうと、他者と関わることでしか生きられない」と思っている(のかもしれない)。
ただし、「生きられない」は諦めの意ではなく、或いは(『もっと超越した所へ。』の衝撃的結末に表れるような)開き直りなのかもしれないが、それでも本作では、真理恵のマネージャー・関の真っ直ぐなセリフにおいて、他者の「複雑」な「メンドクサさ」を受け入れることについて積極的に肯定してみせたのは、鮮やかだった。

メモ

舞台『宝飾時計』
2023年1月29日。@東京芸術劇場プレイハウス

本文、敬称を略していること、ご容赦ください。

「メンドクサさを引き受ける」というのは、『今、出来る、精一杯。』の登場人物・ななみのセリフで、2019年上演時には、本作にも出演している伊藤万理華さんが発した。それは、同じく本作にも出演している池津祥子さんに向けられた言葉で、本作においては立場が逆転しているようにも見える。
だからと言って伊藤さん演じる杏香の一見逆ギレともとれる凄まじい独白は、立場が逆転したことによる仕返し・復讐ではない。
ななみも杏香も根本さんのメッセージが仮託がされていて、「人は独りでは生きられない。他者(相手から見れば自分も他者)と生きるためには、互いに、複雑さを理解し、メンドクサさを引き受けなければならない」と、つまりは同じことを言っている。

本作での杏香の独白の意味は大きい。
挫折の末に閉じこもっていた杏香は、ゆりかによって楽屋に連れてこられたことで芝居と出会い直した結果、独白に至るのだが、それは、ケガでモーグルを断念し挫折を味わった末に、演劇と出会ったことで立ち直った根本さん自身に通じるのではないだろうか、と勝手な妄想をしてみる。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?