宮沢章夫著『時間のかかる読書』(2022.10.25改訂)

「ステイホーム」だったらしい。というのも、これを書き始めた今日時点で、全国の「緊急事態宣言」は解除されているから。
そんな時に「こんな時こそ本を読もう」とは、遅きに失している。
別に構わない。流行に乗りたいとは思わない。私は元来、天邪鬼だ。

私は、宮沢章夫著『時間のかかる読書』(河出文庫。以下、本書)をお薦めしない
「こんな時こそ」に全くもって相応しくないからだ。

何故相応しくないか、本のタイトルを見れば一目瞭然だ。とにかく時間がかかるのだ。とは言え、本書は230ページ程度しかない。読了するのに、そんなに時間がかかるとは思えない。それなのに。

本書は、宮沢章夫が、横山利一という作家が1930年に発表した小説『機械』を読んで、感想を述べたり、解説を加えたり、突っ込みを入れているだけ。難解な言い回しや、哲学的な解説をしているわけでもない。
『機械』という小説自体も、埴谷雄高の『死霊』などの「バカ長く、しかもトテツモナク難解」(という私は、『死霊』がどういうものか、当然知らない。なんとなくカッコつけたくて書いてみただけである。そのあたり、本人が一番自覚しているので、間違っていても誹謗中傷を浴びせないで欲しい)というわけでは全くない。
実は、本書の巻末に『機械』が収録されているが、たかだか30ページ程度の短編だ。
古い小説なので文体や設定が馴染まず、ちょっと苦労する程度で、さほど時間がかかるとは思えない。
ところが!だ。宮沢がこの短編を読むのにかけた時間。

実に11年と数ヵ月!

もう今は「ステイホーム」じゃないし、いくら「ステイホーム」といっても、11年以上も続くわけがない。というか、人間がそんなに長い期間、おとなしく「ステイホーム」できるわけがない。

この本は、『一冊の本』(朝日新聞出版)という月刊誌に連載したものをまとめたものだが、月刊といえど、連載は本当に11年以上に及んだのだ。たかが数十ページの短編小説を11年以上少しずつ読み進めながら、毎月キチンキチンと原稿を書いていた宮沢も宮沢なら、先を急かさず律義に掲載し続けた雑誌も雑誌だ。ちなみに言うと、本書、「第二十一回 伊藤整文学賞(評論部門)」を受賞しているのだ。賞を与える方も、どうかしている。

さて、本書は先に触れたように、巻末に『機械』が収録されているので、宮沢の連載を読みながら、小説の該当部分が即座に当たれるという、親切極まりない構成になっている。

早速読み始めてみる。
と思いきや、宮沢は、やれ『コンピュータで原稿を書こうと思ったら、さる有名な編集者が「コンピュータで書く時代になったら、文章・内容ともに明らかに緊張感がなくなった」と批判したことを思い出した』だの『岡崎京子の「リバーズ・エッジ」を読んだ』だの、『読む前に「あらまし」を紹介しようと思ったがうまくまとまらない』だの、グチグチ言うばかりで、ちっとも『機械』を読もうとしない。

やっと読み始めたのは、連載5回目である。

書き出しはひどく唐突に感じる。
「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った」
いきなりそう言うのである。

いきなり書き出しに引っかかるのである。そして、こう言い放つ。

いやな予感がする。

いやな予感がするのは、こちらの方だ。と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、続きを読む。
すると宮沢は、『「主人」はなにゆえに、「私」をして「狂人ではないのか」と思わせたのか』に思いを巡らせてしまっているのだ。

たとえば、
「朝、起きるなり、ラッパを吹く」
これは、かなり狂人である。うるさくってかなわない。
「深夜、黙々とテーブルの足を雑巾で拭く」
黙々が、狂人らしさをいやがうえにも高める。
「虫と会話をする」
あきらかに狂人である。

こんな調子で、1回分。これでは遅々として進まないはずである。
そんなこんな、えっちらおっちら、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながらも、何とか連載は進み、小説も進んでいく。
読者は、宮沢の与太話につき合いながら、その中で時折触れられる『機械』の一節について、巻末の小説の該当部分を探して読んだりしながら、こちらも這う這うの体で読み進めることになる。だから、時間がかかる

それでも何とか読み進めると、ある月には

コンピュータ社会における「オープンソース」という考え方は、エリック・スティーブン・レイモンドの『伽藍とバザール』(光芒社)という本に詳しい。簡単にまとめると、ひとつのコンピュータソフトを開発するのに開発段階からそのソースを公開し、プログラマーらの目に触れさせることで集団でソフトを作り上げてゆく方法のことだ。

と書き出されていて読者を混乱に陥れる。読者がこの先を読み進めるためには、この混乱を解消し、気持ちを立て直さなければならない。だから、時間がかかる

そうして漸く、宮沢も読者も『機械』の読了にこぎつける。繰り返すが、宮沢が『機械』を読んでいた期間は、11年以上である。

ホッとしたのも束の間、ページを捲ると、オリジナルの『機械』が収録されているではないか。
つい、「そういえば、宮沢につき合って読み進めてきたけど、断片的だったから、話の筋がよくわかっていないよなぁ」と思って、読み始めてしまう。

初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。

確かにそう書いてある。
いやな予感がする
ここで読者は「宮沢は何て書いてたっけ」と、今度は宮沢のコメントを参照し、宮沢の「狂人」の考察を読んでしまうハメになる。
以降、読者は『機械』本文の一節一節について、該当部分の宮沢のコメントを探して読むようになる。
結局、『機械』数十ページを読了するのに、宮沢の本文を読んだのと同じだけの作業(手順は逆だが)が必要になる。
だから、時間がかかる。

私は決して、本書を薦めない

「緊急事態宣言」が解除されて、本当に良かった、と心から思う。
「ステイホーム」中だと、「暇だから、読んでみようか」とうっかり思ってしまう人がいるかもしれなかったから……

※本稿は、2020年最初の緊急事態宣言中の「こんな時こそ本を読もう」というお題に即したものです。


(2022.09.20追記→2022.10.25改訂)
宮沢章夫氏が2022年9月12日に逝去されました。
「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」は世代的に間に合いませんでしたが、シティボーイズ『西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』(2013年)の作・演出や、NHK Eテレの「ニッポン戦後サブカルチャー史」シリーズが記憶に残っています。
時間を気にすることのない世界で、ゆっくり読書を楽しんでください。


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