魅惑の「ランチ酒」~原田ひ香著『ランチ酒』~

しがないサラリーマンとしては、「ランチ酒」という言葉は魅惑的に響く。普段の就業時の昼休みには菓子パンを齧っている酒飲みの私は、たまに外出すると「グラスビール1杯くらいならバレないんじゃないか?」という葛藤に苛まれる。
だからこそ、有給休暇を取った日には、「積年の恨みを晴らす」とばかりに飲食店でお酒片手にランチを楽しむ。
働き蟻のごとく忙しなく、唯々「エネルギー補給」のための昼食をとる御同輩を横目に、ワザと「これ見よがし」に生ビールを煽ってみせる。頭の中では「ざまぁみろ」という言葉がグルグル回っている。あゝ、本当に性格が悪い私……


そんなサラリーマンたちの喧騒の中、私と同じように一人でランチ酒を楽しんでいる女性がいた。
彼女こそ、原田ひ香著『ランチ酒』(祥伝社文庫、2020年)の主人公・犬森祥子である。
彼女は「授かり婚」で娘の明里を産み、アラサーの現在は離婚し娘も置いて家を出、高校時代の友人・亀山の助けを借りて一人暮らし。
彼が興した会社「中野お助け本舗」で「見守り屋」を手伝って自身の生計を立てている。

彼女が一人でランチ酒をしているのは、この「見守り屋」という聞きなれない職業のせいだが、『営業時間は夜から朝まで。様々な事情を抱える客からの依頼で人やペットなど、とにかく頼まれたものを寝ずの番で見守る』のが仕事だという。
彼女は「見守り」の帰り、仕事先の近所で見つけたお店に入って、疲れを癒し、仕事の依頼主やそこで起こったことを振り返りながらランチをつまみに一献傾ける。
だから正確に言うと、彼女の「ランチ酒」は私とは違って「仕事明けの晩酌」でもあるわけだ。

客は、「夜中じゅう見守っていて欲しい」と依頼する(される)くらいの人だから、大抵何らかの事情を抱えている。
パーティーでの自分の発言や行為の一つ一つをネガティブに思い返し、どんどん自己嫌悪に堕ちて行く女性漫画家、最愛の妻に先立たれてから後を追うことしか考えられなくなった画家、若くして大金を稼ぐようになった実業家は地下アイドルを金で従わせることで自身の心の隙間を埋めようとする…。
つまり本書は、そういう人たちを主軸にした短編集なのである。

「中野お助け本舗」は、その名のとおり東京・中野にある会社だから、祥子が訪れる客の家はほとんどが都内にある。
祥子は武蔵小山で肉丼を食べ、中目黒でラムチーズバーガーを頬張り、十条でタイガービール片手に肉骨茶パクテーを食べながら高校時代の友人を頼って訪れたシンガポールの思い出に耽る。
一度は大阪・阿倍野まで出張し、東京ではめったに見られない、当たり前に昼飲みしている光景を目の当たりにして、大阪の自由さを実感する。

ある時は、一人娘を置いて家を出た祥子自身の事も振り返りながらを酒をあおる。その一人娘も別れた夫の再婚相手に懐いているという。いよいよ独りになるのかと孤独感に襲われた時、「ランチ酒」に連れ出してくれたのは亀山をはじめとした高校時代の友人たちだった。

物語の中では祥子が訪れたお店の名前は明かされないが、中江有里氏の解説によると、(一部閉店した店もあるが)全て実在する(した)そうだ(私は、かろうじて新宿のお店だけはわかった)。
そう思って読むと、「中野お助け本舗」に依頼してきた様々な事情を抱えた客も、東京という世界でも有数な大都会のどこかに実在していそうな気がしてくる。

特別な事情が無くても、不意に、大都会の中で蟻どころか砂粒よりも小さくてちっぽけな存在の自分のことを考えて眠れなくなってしまう夜が訪れる。人が多いからこそ自分の孤独が際立って胸が張り裂けそうになる夜がある。
そんな孤独で無力で寂しい夜、玄関のベルが鳴る。

「こんばんは。お助け本舗の犬森祥子です」

笑顔の裏に孤独を抱えた彼女は、言葉には出さないが私の孤独や淋しさに共感してくれるだろう。
その共感に見守られながら、私は安心して眠りに就く…

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