映画『ゴースト・トロピック』

以前、別稿にも書いたが、酔っ払って終電に乗れなかったり、乗れても寝過ごしてしまったりして、深夜の街を自宅目ざして歩き続けた経験が、何度もある
見知らぬ場所ということもあるし、それ以上に「深夜」という要素が大きいのだと思うが、普段は見えない物や人に遭遇することが多い。

間違ってはいけないのだが、それは、昼と夜で街に出る人が入れ替わる、ということではない。
夜遭遇する人も、ドラキュラでない限り、我々と同じように昼の続きで夜があり、夜の続きで昼がある。
それは「見え方」が違う、或いは、見ている我々の立ち位置が少し違っているということでしかない。

映画『ゴースト・トロピック』(バス・ドゥヴォス監督、2019年。以下、本作)はまさにそれを端的に映し出している。

掃除婦のハディージャは、長い一日の仕事終わりに最終電車で眠りに落ちてしまう。終点で目覚めた彼女は、家へ帰る方法を探すが、もはや歩いてしか帰れないことを知る。寒風吹きすさぶ真夜中のブリュッセルを彷徨い始めた彼女は、予期せぬ人々との出会いを通して家に戻ろうとする。

本作ストーリー

ハディージャは私と違い素面ではあるが、だからこそ余計に夜の街の「陰翳」が見える。
本作は夜中のブリュッセルを「怪しい、不穏な街」としては描いていない。本作が描くのは、あくまで「陰翳」であり、そのために16mmカメラが使用されている(最近のデジタルカメラはほんの少しの光量でも映像として捕らえることができるが故、「陰翳」を映すのはとても苦手だ)。

ハディージャが出会う人たちは、「夜だから」出歩いているわけではなく、ハディージャと同じように、昼の生活の続きで、ここにいる。
それを象徴的に表しているのが冒頭のシーンで、ここでは、ハディージャが働きに出た後の無人の部屋が昼から夜になっていくのが数分の長尺を掛けて映される(最終盤、ハディージャがようやく自宅に帰り、眠り、また仕事に出かける姿が定点観測されるシーンも同様)。

つまりこれがドゥヴォス監督が伝えたいことであり、だから本作は、「終電を逃した中年女性が自宅まで歩いて帰る途中に様々な人に出会い、成長する」的な「ロードムービー」とは全く違う。
監督は、パンフレットに掲載されたインタビューにこう答えている。

ブリュッセルは文字通り24時間眠らない街です。そして、夜になると、警備員、看護婦、家政婦など、きつい仕事をする人々が忙しくしている。そういった仕事をしているのはほとんどが移民の人たちで、彼らがブリュッセルを支えているんです。彼らの姿を通じて、ブリュッセルの経済の舞台裏を描きたいと思いました

『トロピック』は「回帰線」という意味で、それはまさにハディージャのことを指している。

では『ゴースト』とは何か?(恐らく原題は「Tropic」である)
一つは、監督が言及している「昼間は(存在するのに)見えない者とされている人たち」
もう一つは、「誰もいない部屋で外が暗くなるのをじっと見ている存在」(ある種の哲学的問題にもなるのだが、果たして、不在の部屋が、不在のまま存在し続けているという確証はあるのか?)

あとは、偶然娘を見かけてしまったハディージャ、さらに、警察にチクるハディージャ。

個人的には、終着駅から仕方なしに歩き始めるハディージャの姿を捉えるカメラ(彼女のアップから始まり、段々、彼女との距離が遠のく。それはやがて、辛うじて人だとわかるくらいまでに小さくなる。人物が特定不能になった時私は、そこに映っているのが酔って自宅まで歩く私自身に見えた。私は私自身の「ゴースト」になり、私自身を見ている……そんな気になって、一瞬ドキッとした)。

夜の街で様々な人たちと行き違ったハディージャは、ようやく自宅に辿り着いた。束の間の休息の後、彼女はまた、いつものように働きに出る。それは、連続した「いつもの私」だ。

一方……
意味深なラストシーン。
そこに映るハディージャの娘は、もしかしたら(いや、恐らく)「昨日までと180度違う私」になったのではないか(数時間前、夜の寒さに震える自分のために上着を取りに帰った男の子を待つ彼女の、ドキドキと幸せが入り交じったような表情(母親に見られているとは知らず)を見て、たまらなく泣きたくなった。音楽も相まって素晴らしいシーンだった)。

メモ

映画『ゴースト・トロピック』
2024年5月15日。@UPLINK吉祥寺


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