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映画『さよなら ほやマン』【映画賞受賞記念アンコール上映】

スクリーンで観られてよかった。

映画『さよなら ほやマン』(庄司輝秋監督。以下、本作)が2023年に公開された時、名作だと評判になっていたのは知っていた。上映後の映画館からたくさんの観客が笑顔で出て行くのを目の当たりにしたこともある。
2024年になってからも、各地でロングラン上映されていることも知っていた。
なのに、私は他の映画や芝居などを優先して、観に行かなかった。
だから、本作で兄弟を演じた、映画初主演の人気バンドのミュージシャンと映画初出演の新人俳優が2人揃って「第33回日本映画批評家大賞 新人男優賞」を受賞したことによって実現した、たった3回限定のアンコール上映は、スクリーンで観られる最後に近いチャンスだったといえる。

余裕があれば観たいけど、是非というわけでもないなぁ……
そういう気持ちだったのは、そのタイトルと「ほやマン」らしき着ぐるみが登場する予告編から、妙な偏見を持ってしまったせいでもある。
観終わった私は、『さよなら ほやマン』というタイトルに対しても含め、その偏見を猛省した。
やっぱり、スクリーンで観られてよかった。

物語のあらすじというか設定は、こんな感じ。

豊かな海に囲まれた美しい島で、一人前の漁師を目指すアキラ(アフロ(MOROHA))は、「ほや」を獲るのが夏の間の仕事だ。船に乗ることができない弟のシゲル(黒崎煌代こうだい)と2人、島の人々に助けられてなんとか暮らしてきたが、今も行方不明の両親と莫大な借金で人生大ピンチに直面中。そんな折、都会からふらりと島にやってきたワケありっぽい女性、漫画家の美晴(呉城久美)が兄弟の目の前に現れた。「この家、私に売ってくれない?」その一言から、まさかの奇妙な共同生活が始まる。3人のありえない出会い、それは最強の奇跡の始まりだった─。

本作「あらすじ」

アキラとシゲルの兄弟は「ほや」を獲るのを生業なりわいにしながらも、海産物を一切口にせず、カップラーメンばかり食べている。
東日本大震災の時、海に船を流し(沖出し)に行ったまま未だ見つかっていない両親が、まだ海に居ると思っているからだ(近所に住んで兄弟の世話を焼く荒井春子(松金よね子)によると「震災直後はそういう人が多かった」という)。
だから、震災(津波)から12年経ってもまだ、両親の死亡届も出していない。

『都会からふらりと島にやってきたワケありっぽい女性』美晴によって、過去に囚われて一歩も動けなかった兄弟が前を向いて歩きだす、という物語がすんなりと心に沁み込んでくるのは、これが、海に囲まれて外界との接触がほとんどない小さな島の閉ざされた共同体における「民話」、しかも「マレビト」の構造を持つからだ。

まんが原作者・批評家である大塚英志氏の著書『「14歳」少女の構造』(ちくま文庫、2023年)で、「マレビト」はこう説明されている。

<マレビト>とは折口民俗学のキーワードともいえる概念であり、「古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る」(折口信夫「国文学の発生・第三稿」)ところの<来訪神>を意味する。民族社会に一般的に見られる、ある種の異郷人に対して、その祝福を受けつつ、これを歓待するという<外者歓待ホスピタリティ>の日本的な一形態として折口によって"発見"された概念である。折口のいう「海のあなた」とは、より具体的には<常世>-生命や豊穣の源泉地である神々の地を指す。

『海のあなた=神々の地』から来る者は目的など持たない。
やむなく、つまりは「追放」の目に遭ったのだ。
美晴はまさにそうで、結局のところ、異質なものが交わることによって、互いの痛みを「認め」、それが「エンパワメント」に繋がる。

美晴が押し掛け居候になった後、アキラは漁に出ると「ほや」が『脳みそが無くなる前に』と話しかけてくる(安齋肇の声がイイ)幻覚を見るようになる。
このセリフは少し説明が必要で、本作パンフレットの庄司監督のコメントを引く。

ほやは卵で生まれて、おたまじゃくしのように泳ぎまわり、住む場所を決めると背骨と脳がなくなって、あとは何も考えずに一生を終えるんです。

本作では、この「ほや」の習性を人間の思考停止による共依存にたとえている。
アキラは「生活とシゲルのため」、シゲルは「兄に迷惑や心配をかけないため」、美晴は「自身の生い立ちのせい」と転化することにより、自身のことを考えずに済む。
始めは兄弟だけの共依存関係だったものが、美晴が「この兄弟のために」と自身の思考停止を兄弟に転嫁してしまうことにより、トライアングルの共依存ー3人の内面(背骨)と思考(脳)がなくなるーの関係に陥りそうになる。
しかし、兄弟の共依存関係が壊されたことでシゲルが反応してしまったところから、物語は一気に全速力で突っ走り始める。

強烈なのは、アキラが美晴に暴力を奮ってしまいそうになった瞬間、我に返り、自分の頬を引っ叩き、同じように美晴も自分の頬を引っ叩くシーン。
この時の「殴れよ、グーでもパーでも」という美晴の辛すぎるセリフと共に、二人が抱える内面の辛さが強烈な印象となるが、つまり、思考停止に陥った自分の目を覚ますのは(或いは自身を罰するのは)、他人ではなく、自分自身のこの肉体でしか成し得ないのである。

ここから物語は、美晴の「今がその時だ」というセリフから、鮮やかに疾走する
何かを吹っ切るように夜の海へ出たアキラは、そこで父と母の「その時」を見る。二人の船はアキラの船を抜き去る。
その後ろ姿にアキラは叫ぶ。
「ごめん。俺が死なせたんだ
アキラはここへきて、ようやく(「あの時」から知っていた)両親の死を認めたのだが、大事なのは「俺が死なせた」というセリフだ。

映画の冒頭に登場する「ほやマン」は、今は亡き父が扮している。
だから『さよなら ほやマン』というタイトルは父との別れとも取れるが、先のアキラのセリフから、「父殺し」における「ジュブナイル的物語」が見えてくる。

「マレビト」としての「民話」は、セオリーどおり「父を殺す」ことによって大人になったアキラ(とシゲル)の成長を見届けた「マレビト」がいなくなる展開となる。
では「マレビト」美晴は、何だったのか?
ヒントは、先の、アキラが懺悔するシーンにあるのではないか。
船を操縦する父親は、叫び続けるアキラの方を振り向かない。
振り向くのは、後ろに乗っていた母親だ。
彼女の顔は、「いいかげん、前を向きなさい」と言っているようにも見えた。
美晴の髪の色は、海を想起させるブルーだった。

メモ

映画『さよなら ほやマン』【映画賞受賞記念アンコール上映】
2024年4月17日。@UPLINK吉祥寺(アフタートークあり)

パンフレットにアフロ氏と親交のある俳優・東出昌大氏の掲載のコメントが載っている。
本作を観た彼。

その晩、下北沢のうるさい居酒屋にアフロと飲みに行った。酔っ払ったハッピー野郎が、満面の笑みで聞いてきた。「俺映画賞とか獲れるかな!?」ハイボールを吹き出す。「バカ野郎!映画舐めんな!」一笑にふしたが、ニヤニヤの止まないその顔を見ながら「あぁ、いい映画だったんだなぁ」と、幸せと酒を口に運んだ。

ハッピー野郎の言葉は現実となった。
彼は「第33回日本映画批評家大賞新人男優賞」を受賞した。
しかも、シゲルを演じた黒崎煌代氏とのW受賞だ。
上映後のトークショーに登壇したアフロ氏は言った。
「黒崎と一緒に獲れたことが嬉しい」

その黒崎氏は先日、別の賞を受賞したのだという。
授賞式を見たアフロ氏は、黒崎氏にシゲルの面影がないことが寂しかったという。
しかし、「20代前半の人間的成長はもちろん、『今はシゲルじゃない役を演じている』と、俳優としても成長していると気づいて嬉しくなった」。
そう語るアフロ氏は、「弟の成長を喜ぶ兄ちゃん」の顔をしていた。


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