羽原組 舞台『フラガール'23』

その人は、『レッスンでメンバーを劇場の床に座らせ、ステージを見つめさせた。「プロとしてお金をもらって見てもらう覚悟がある子だけ、ステージに上がって」』と言った。
今年(2023年)、ダンスプロデューサー・夏まゆみ氏が逝った。冒頭のエピソードは、AKB48の1期生に対してのものだと言われている(出典:2023年9月16日付朝日新聞夕刊「惜別」)。
『2005年、オーディションで選ばれた1期生はダンス未経験者が大半だった』。

同じ頃、1本の映画が作られた。
映画『フラガール』(李相日監督、2006年)。
斜陽産業の石炭採掘から「常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)」への生まれ変わりに大きく寄与した「フラガール」1期生たちの奮闘を実話に基づいて描いた物語は、キネマ旬報ベスト・テン日本映画ベストテン第1位に選ばれるなど、話題となった。
その人気は今も続き、度々、現役アイドルたちが出演する舞台が上演され、私は、この"note"に「女性アイドルに相応しい物語」と感想を綴った。

オリジナル映画版で李相日監督と共に脚本を手掛けた羽原大介氏が主宰する羽原組の舞台『フラガール'23』(羽原大介脚本・演出。以下、本作)は、「'23」とあるとおり、実話部分の骨格は残しながらしかし、登場人物名や家族構成、物語を大きく変えた作品となった。

タイトルに付加された「'23」は、「2023年上演版」という単純な意味ではなく、映画公開後に「国民的アイドル」とまで呼ばれるようになったAKB48以降の「アイドル誕生物語」ーつまり、先の舞台がAKB48グループにゆかりのある「既にアイドルとして認められた存在」によるものであることに対し、「その存在になるまで」-を描いたことに由来するのではないか。

映画版との大きな違いは、フラガールたちの成長が、(映画公開以降に人気となった)「AKB48神話」になぞらえられていることだ。
映画では蒼井優演じる紀美子(本作での中村守里しゅり演じる"花子"にあたる)一人が、指導者である松雪泰子演じるまどか(同、稲村梓演じる"あかね")のフラを見てその魅力に憑かれるが、本作ではフラガールの志願者全員がその瞬間に立ち会うことになる。
彼女たちは、「炭坑の町をフラで救う」と度々口にし、もちろんそれが最大の目的でもあるが、しかし、それ以上にフラの虜になってしまった。
同時に、映画版(及びそれに準ずる舞台版)ではまどかのフラを目撃することによって決定づけられた「センター」が、本作では、グループの中からあかね(=指導者)が花子を「センター」に指名する。
オーディション合格者(というてい)の女の子たちを前に、あかねは、「(フラを人前で踊るプロになることによって)見たことのない世界を見せてあげる」と言う。

この構成が私には夏まゆみ氏とAKB48の物語とダブって見えるが、では本作が完全に21世紀の物語かといえばそうではなく、ヒロインの造形は、物語の舞台である1960年代後半(というより1970年代の方が適切だろう)の少女マンガーつまり、一見普通の子たちより劣っている(内気、ドジ・おっちょこちょい、鼻ぺちゃ・チンクシャ……)ヒロインが、絶対的指導者や(大人の)異性によって、常人にはわからない才能(魅力)を見出されるーに由来している(さすがに2023年の観客には難しいと思ったのか、ヒロインは「母の英才教育によってクラシックバレエを習わされていた」ということになっているが、指導者がそれ以外のところに魅力を見出したことが暗に示唆されている。さらに言えば、この「常人にはわからない魅力によって指導者から選ばれた」ことに嫉妬した者からイジメられるというのも、例えば『エースをねらえ』『ガラスの仮面』といった、当時の少女マンガの王道ストーリーだ)。

AKB48とシンクロするように進んできた(と私が思った)物語は、「劇場本公演デビュー」というクライマックスを迎える。
映画版も先行の舞台版もこのクライマックスが華々しいエンディングとなる。
しかし、本作には続きがある。
フラガール・デビューという華々しい宴の大団円の裏で、現実として炭坑は閉鎖されてしまうのであるが、私にはその「閉鎖という現実」に至った「それ以上の現実」を突きつけているように映った。
これこそが、映画版(オリジナル)の脚本を担当した羽原が自ら改編・上演したことの意味ではないか。

家父長制が当時の日本全体の現実だったことは認めた上で、それだけなく、仕事のせいで身体を壊したにも拘わらず、それを押してまで仕事に縋る男の姿を「美談」にすり替えることによって、酒浸りや女子供に対する暴力までもを正当化してしまう、その、「一山一家」の名のもとに閉塞した狭い共同体の行き過ぎた論理。
「炭坑そのもの」だけでなく、「炭坑の町そのもの」まで廃れてしまったのは必然であった。

メモ

羽原組 舞台『フラガール』
2023年10月14日 マチネ。@赤坂RED/THEATER

終演後、時間があったので、劇場から数十分(地下鉄で1駅ぶん)歩いて国立新美術館に行った。今年(2023年)の夏に東京都現代美術館で見た企画展「あ、共感とかじゃなくて。」(2023年11月5まで)に参加していた渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)の「私はフリーハグが嫌い」が美術館のフリースペース(つまり無料)に展示されていたからだ。
展示されていたパネルに渡辺のこんな言葉が書かれていた。

このプロジェクトを発案する際に、折口信夫という民俗学者が提唱した「まれびと」という概念について考えました。共同体の内側にいる人に対し、共同体の外側からやってきて共同体に揺さぶりをかける異界からの存在を、折口はまれびとと呼びました。まれびと出現の儀式は厄災をはらう意味があり、それは芸能の成り立ちであり、異質な世界の力と言えます。(後略)

あかね(オリジナルは"まどか")は「まれびと」そのものだ。
だが、「まれびと」が共同体の厄災を祓うという一方的に与える存在だったのかといえば、きっとそうではない。

まんが原作者・批評家である大塚英志氏の著書『「14歳」少女の構造』(ちくま文庫、2023年)で、折口の「まれびと」はこう説明されている。

ある種の異郷人に対して、その祝福を受けつつ、これを歓待するという<外者歓待ホスピタリティ>の日本的な一形態として折口によって"発見"された概念である。

「まれびと」自身、歓待されて癒されなかったはずはない。
それは、映画及び本作の主役が彼女である(本作のキャスト表では、"花子"役の中村守里より上にある)であることからもわかる。映画でも本作でも、彼女は、その理由は異なれど、「挫折」して常磐炭坑にやって来て、フラガールたちの「歓待」を受け、それを癒すのである。



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