「芝居見物」の定番へ~舞台『歌妖曲~中川大志之丞変化~』~

明治座で上演されている舞台『歌妖曲~中川大志之丞変化~』(倉持裕作・演出。以下、本作)の本編が終わり、個人的には何だか消化不良のまま拍手をしながら、「座長」の中川大志を中心に出演者たちが左右に並ぶカーテンコールを観て、不意に、「あゝ、これって『お芝居』そのものじゃん」と腑に落ちた。
皮肉ではないし、消化不良の気持ちを無理矢理鎮めたわけでもない。

「座長公演」といえば大物演歌歌手を思い出すかもしれないが、その人たちだって大物になってから座長公演を始めたわけではなく、結構若手の頃からやっていたし、たとえ大物になってから始めたとしても、俳優としては「新人(素人とまでは言わない)」である。
その「新人」を実力派のベテラン俳優たちがガッチリとサポートして、お芝居として成立させる。
さらに、主役の相手役を異性の美形俳優またはアイドルが務めることも多い。

前置きが長くなったが、要するに本作のカーテンコールを見て、「新人座長」を池田成志、山内圭哉、浅利陽介ら実力派のベテラン俳優たちがガッチリとサポートし、元SKE48の松井玲奈が相手役を務めていたのが、一目で理解できたのだ。
理解できたところで本編を思い返せば、座長が1人2役をまさに"体当たり"で熱演し、劇中で実力派シンガーたちによる熱唱(1幕ラストの中村あたるによる「影」の熱唱は圧巻!あれを聞いた後に幕間なんて!)あり、相手役のアイドルが歌ってくれる(松井玲奈が可愛く歌っているのを観て、「アイドルだったんだなぁ」と改めて感心してしまった)舞台を観ることを「王道のお芝居見物」と言わずして何と言おうか、と腑に落ちたのである。

で、腑に落ちて機嫌良く劇場を後にしながら、改めて「消化不良」について考えてみた。

私は1階席の後方で観ていたのだが、終始客席が戸惑っていたように感じた。
その原因の一つは「設定のわからなさ」ではないか。
難解だからではなく、「馴染みが薄い」のだ。
本作、作演出の倉持裕氏が明かしているように、「中川大志でシェークスピアの『リチャードⅢ世』を」という企画で始まっている。
だから幕開け、中川は「せむし男」として登場するのだが、果たして「座長」目当ての観客は、これが理解できただろうか?

また、物語設定は、タイトルでも触れられているが「昭和40年代の昭和歌謡芸能史」。
当時は、バンドマンが芸能事務所を設立(*1)したり、芸能人のコンサート(或いは「地方営業」)活動などを担っていた「興行主」には、今でいう「反社組織」が多かったのも事実で、昭和45(1970)年生まれの私にとっては懐かしいとすら思えるのだが、今の人たちにはきっと馴染みが薄い。
だから、「芸能界とヤクザ」と聞いただけで、引いてしまうかもしれない。

という物語自体もさることながら、観客が戸惑っていたのは「ペンライト」の扱いだ。
発色がいくつかあり、曲に応じて指定されている(らしい)色に観客自身が切り替えなければならない(らしい)。
「ペンライトのタイミングはロビーに掲示してありますので、ご確認ください」と言われても、ジュークボックス・ミュージカル(既存のヒット曲を使ったミュージカル)ならいざ知らず、オリジナル曲でしかも初演である本作で、事前に確認したってわからない……ということで、皆さん、下手しもて前方の一角にいたリピーターらしき方々を参考に一生懸命切り替えていた。そんな観客の皆さんを見ながら、私は観劇に負担を強いることに対してモヤモヤしていたのだが、カーテンコールで「座長公演のお芝居」と腑に落ちた瞬間、それらが解消されたのだ。
「座長公演」は定期公演ができる。今回は初演だったから、観客も戸惑いが大きかっただろうが、繰り返し上演すれば、それが「定番」となる。そうなれば、ペンライトどころか(コロナ禍が解消された暁には)声援だってできる。
そうやって徐々に盛り上がりを見せた本作は、やがて”中川大志之丞”の「十八番おはこ」となるのだ。
私は、その記念すべき初演を観たのだ。そりゃあ、機嫌も良くなるはずだ。

決して、茶化しているわけではない。
今やファミリーミュージカルの定番となった『ピーターパン』は、四十数年前、大人気アイドル・榊原郁恵ちゃんの「初座長公演」として上演されたのだ。当時、初めて観た観客(郁恵ちゃんファン)はさぞかし戸惑ったことだろう。

*1 堺正章氏などが在籍した「ザ・スパイダース」のメンバーだった田辺昭知氏が興したのが「田辺エージェンシー」で、「ホリプロ」の創業者・堀威夫氏や「ナベプロ」の創業者・渡辺晋氏もバンドマンだった。

メモ

舞台『歌妖曲~中川大志之丞変化~』
2022年11月12日 昼公演。@明治座

私が消化不良だったのは、本文に書いたような「戸惑い」ではない。
『リチャードⅢ世』だから、中川大志演じる「せむし男」である鳴尾じょうがどんな悪事の限りをつくし、どんな死に方をするのかと期待していたところ、何だか肩透かしにあったような気分だったからだ。
リチャードⅢ世は、復讐目的の悪事がバブル状態に陥った果てに疑心暗鬼にかかり暴走が止められなくなって、最後、それまでの悪事によって壮絶な断罪で死んでゆく……と、理解しているのだが、何となく、「復讐目的の悪事がバブル状態に陥った」のは、定ではなく、松井玲奈演じる蘭丸杏だったような気がするのだ。
で、疑心暗鬼ではなく彼女の暴走を止めるために杏を殺したように見えた結果、定が悪者ではなく、「その醜い容姿のために家族の愛に飢えていた可哀想な人」で死んでいった……ように見えたのだ。
もちろんこれは、初見の私の感想でしかない。定番公演になれば、きっと印象も変わってくるだろうと期待している。

それ以前に、イケメン人気俳優(もちろん実力派)の「座長公演」で、シェークスピアばりの「非情な悪者が重ねた残忍な悪事の果てに狂ってしまい壮絶な最後を迎える」主人公なんて見たくないかもなぁ、悲劇でも救いがあるのが「お芝居」だよなぁ、と、劇場を後にしながら思い直したのだった。

で、全然関係ないのだが、本作冒頭で池田成志氏と山内圭哉氏が並んでいるのを見て、不意に「群馬水産高等学校」の校歌が頭をよぎり、思わず吹き出しそうになった(ついでに、「妙な笛」と「変な人形」も)。
同様に、松井玲奈さんと中村中さんが敵対しているのを見て、不思議な気持ちになったりもしたのである。
長く観劇を続けていればこういうことが起こるもので、つまり、作品はたくさんできるけれど、俳優は増殖しないということ。


2022年、倉持裕氏の作品は、本作と舞台『鎌塚氏、羽を伸ばす』を観た。
特に本作は明治座での公演ということもあり、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館監修/後藤隆基編『ロスト・イン・パンデミック 失われた演劇と新たな表現の地平』(春陽堂書店、2021年)という、2020年のコロナ禍の演劇界についての本に彼が寄稿した文章を思い返し、彼の強い意志を改めて感じた。

この期間に世界中の興行主はとてつもない額の負債を負っている。嵐が過ぎ去った後には気が遠くなるような復興作業が待っているだろう。平たく言ってしまえば興行を「当てる」ということだ。これからも演劇が続いていくためにも、自分自身が続けていくためにも、とにかく今は当てなければと、真剣に考えている。





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