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映画『見知らぬ人の痛み』に寄り添う

ネット検索をほとんどしない。そもそもネット自体そんなに利用しない。SNSも(LINEを含めて)やっていないし、配信動画も見ない。
理由は簡単で、ネットには私の知りたい事が書かれていないから。

当たり前のこと過ぎて忘れているかもしれないが、ネットには「誰かが書いたことしか載っていない」、しかも、テスト用紙にたとえれば、途中の計算式などを無視して解答しか書かれていない、私が知りたいのは、「答え」ではなく「解き方」だ。
もっと下世話にたとえると、誰かに「好きだ」と言われたとする(半世紀以上の人生で、そんな経験は全くなかったが)。
その瞬間は嬉しいが、すぐに気がつく。
私が知りたいのは、そんなことじゃない。
「何故、私が好きなのか?」「私のどこが好きなのか?」「私にどうして欲しいのか?」
しかし、ネットはそれには答えてくれない。

先に『誰かが書いたことしか載っていない』と書いたが、普段SNSやブログなどに投稿している人でさえ、全てを書いているわけではなく、書きたくない事や、(私にとって重要な事だったかもしれなかったとしても)書き手当人にとっては書くに値しないと思ったことは書かない。
そして、2020年代の現在、20世紀のインターネット創世期の「世界中の叡智が集まる」という期待も、21世紀初頭の「Web2.0」も、ただの理想であり幻想だったことが露わになっている。
世界中の人が本当に知らなければならない情報が全く書かれないとまでは言わないが、それらは、それを絶望的なまでに凌駕する、書き手の超個人的な「思想」「思惑」しかない書き込み(無論、本稿を含めた私の"note"の記事も然り)によって、即刻窒息死の状態に追い込まれてしまっているのが現実だ。

本当に知らなければならないこと。
たとえば、「コンテンツ・モデレーター」という職業について。
それは、『インターネットの動画サイトにある残酷な動画をひたすら削除し、検閲する』職業であるが、普段からネットに接していても、知らない人の方が多いのではないか?
何故なら、彼ら/彼女らが「一旦は書かれたものを、書かれなかったことにする」からで、つまり冒頭に書いたように、我々は「書かれていない(ことにされた)」ことは検索できないからだ。

映画『見知らぬ人の痛み』(天野大地監督、2024年。以下、本作)の主人公・倫子(大西礼芳あやか)は勤務していた中学校で生徒からのいじめに遭い退職を余儀なくされ、求人情報を見て「コンテンツ・モデレーター」のアルバイトに応募するが、その職業をもちろん知らなかった。
即時採用になって彼女は驚くが、それもそのはず、「すぐに辞めていく人ばかりで、常に人手不足」だからだ。
何故すぐに辞めていく人が続出するのかといえば、それもそのはず。
彼女らが相手にするコンテンツは『ネットに拡散し続ける死や暴力』に関するものだからだ。
倫子も初めて接したときは気分を悪くしたが、次第にのめりこんでいく。

と言っても、27分の短篇である本作は「コンテンツ・モデレーター」の紹介でも、(サイコ)ホラーの類でもない。
あくまで「人」の話である。

上で『書き手の超個人的な「思想」「思惑」』と書いたが、ネットコンテンツが厄介なのは、それが「人の手」によるものだということだ。文章だけだと、「bot」という可能性もあるが、動画に関しては人や動物といった「生き物」が関与しているものが削除・検閲の対象になることがほとんどだ(いじめ、誹謗中傷、暴力、さらにはレイプ、虐待、惨殺まで)。
つまり、そこに映っているのは「生きている(た)生命」であり、それらを削除することは、「生きている(た)生命」を二重に殺すことになりはしないか。

倫子が「コンテンツ・モデレーター」にのめりこんでいくのは、自らが削除したコンテンツに映っていた内容をノートに書き写すことを始めたからで、彼女はそれを、それらに映っていた生き物に生き直しの場を与える、或いは、墓碑銘を刻むつもりで行っていたのではないか。
そしてそれが、生徒からいじめを受けて傷ついた自分自身の生き直しにつながるのでは、と考えていた(或いはその考えに縋っていた)のではないか。

本作、ラスト近くまで、倫子がスクリーンの中心に来ることがない。正面から捉えたショットも少ない。
初日舞台挨拶に登壇した主演の大西礼芳は、「後ろから撮られることが多くて、見守られているような気がした」と語った。
つまり我々観客は、傷ついた倫子の傍で「見守っている」或いは「寄り添っている」存在なのだ。だから、正面から対峙して追い詰めることはしないし、余計なお節介もしない。

人物がスクリーンの真ん中で真正面に映るのは最終盤の、(傍観者という立場で)いじめに加担していた生徒が倫子に謝るシーンだ。彼女もまた、自分の弱さに負けて倫子を退職に追い込んでしまったことを悔いていたし、傷ついてもいた。
カメラ=観客は、彼女を見据えることによって、彼女の想いを真正面から受け止める。そして、倫子に対しても。
「勇気を出した生徒の気持ちを、ちゃんと受け止めなさい」と。

だから、倫子はようやく、夫(小林リュージュ)に心を開くことができた。
ラストシーンが感動的なのは、我々観客が倫子を「見守り」「寄り添って」いたからだ。

メモ

映画『見知らぬ人の痛み』
2024年4月19日。@テアトル新宿(初日舞台挨拶あり)


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