柴崎友香著『かわうそ堀怪談見習い』
2024年夏。
暑い……というか、もはや熱い。
古来より日本の「納涼」の定番のひとつに「怪談」があるが、こう熱く……もとい暑くて(現在の夜の気温は、恐らくかつての「夏の昼間」よりはるかに高いだろう)は、幽霊も出る気が起こらないのではないだろうか。
現実の幽霊は酷暑にやられているかもしれないので、「怪談話」で暑気払いしてみようと思い立ち、柴崎友香著『かわうそ堀怪談見習い』(角川文庫、2020年。以下、本作)を手にしてみる。
たまたまデビュー作の恋愛小説がヒットし、同じような依頼を受けているうちに、いつの間にか恋愛相談のコーナーまで持たされてしまった女性作家が、その活動に疑問と行き詰まりを感じ、別のジャンル-たとえば「怪談」とか-を書き始めようと、まさに「見習い」生活の中で、「奇妙なこと」を体験する……といった物語。
そう、本書で描かれるのは「奇妙なこと」であり、幽霊や怪奇現象が主人公を次々と襲うといった、いわゆる「ホラー」とは違う。
直截的なものが描かれないのに、というか、描かれないからこそ、本作には「得体の知れない怖さ」がある。
物語は最初、主人公の関係者が「いなかったはずの鈴木さん」の記憶を持っていたり、執筆の参考にと古書店で買い求めた怪談本がいつの間にか古本屋に戻っているといった「奇妙なこと」が主人公の身に起こるといったエピソードが短篇小説のように描かれるが、本作の奇妙さは「霊感がない」と言い切る主人公がそれらを深刻に受け止めないことにある。
そうして始まった物語は、「霊感がない」主人公が、同級生で霊感が強い「たまみ(ひらがな表記なのだが、こう書かれると私などは自然と「キノコ人間」(筋肉少女帯「マタンゴ」)を思い出してしまう)」のエピソードを取材しようと再会したところから加速するが、またしても「たまみ」の体験は過去の主人公の行いが影響していると仄めかされているにも拘わらず、主人公はさして気に留めない。
この、ある種定型の怪談(ホラー)話を外した奇妙な物語自体が怖いのだが、後半それが表出してくる。
急な用事で「いわく付き」のホテルに泊まった主人公は、つけっぱなしで寝てしまったテレビに奇妙さを感じ取って起きる。
テレビには夜中の住宅街を徘徊する女性が映っていた。
これだけでも確かに「怪談話」で、普通ならテレビに映った女が自分のところに来るのではないかという恐怖になるが、そうではない。
そう思う主人公自体が物語の奇妙さとそれに由来する怖さにつながっているのだが、この奇妙さを作り出している物語の構造について、作家の藤野可織氏が巻末の解説でこう綴っている。
そう、本書の怖さは「幽霊を見た」という「体験」ではなく、「幽霊(らしき何か)に見られている(のではないか)」という「感覚」に由来している。
本書の「奇妙さ」は、最後のエピソードで「見られている」ということが明らかにされるに至り、明確な「恐怖」に変貌する(仕事帰りの電車でこの箇所を読んだ私は、つり革を掴んでいなければ、きっとその場にへたり込んでいただろう)。
だが、物語にはもう一つ先に本当の「恐怖」が待っている。
通常の「怪談(ホラー)」は主人公が対象と決別、または取り込まれる。
しかし本書はここでもセオリーを裏切る。
『わたしを見ている』はずの『この世ならざる者』が私に背を向ける。
そしてその果てに……
直截的に描かれるより何十倍も背筋が凍る。
そしてさらに、そういう物語を紡ぐ著者の力にも背筋が凍る。
記録的な「熱さ」にピッタリの「納涼体験」だ。
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