舞台『新・熱海殺人事件』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)
2021年6月13日、東京・紀伊国屋ホールにて『新・熱海殺人事件』(つかこうへい作・中江功演出。以下、本作)を観た。一部の役がダブルキャストで、私はRed(婦人警官水野朋子=能條愛未、犯人大山金太郎=三浦海里)の回を観た。
なお、本稿は、本作を観ながら思った取り留めのないことをダラダラと書いているもので、紹介や批評・感想ではないことを予め断っておく(まぁ、能條愛未さんは元乃木坂46だし、ダブルキャストのもう一人はAKB48の向井地美音さんだし、しかも当日は次回公演『改竄・熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン ~復讐のアバンチュール~』の宣伝で、水野朋子婦人警官を演じる兒玉遥さんがゲスト出演していたし…、ということで、紹介や感想など色々書かれると思うので、そちらにお任せする)。
どんなストーリーかというと…
筋の通らない飛躍や矛盾だらけの物語を「熱量」と「力技」で押し切っている作品のため、説明などできる気がしない。
そこで、鴻上尚史著『名セリフ!』(ちくま文庫、2011年)から、鴻上氏の文章を拝借する。
これを読んでも、観ていない人には全然理解できないだろうが、本当にそういう物語なのである。
殺されたのは山口アイ子、殺したのは大山金太郎(三浦海里/松村龍之介)。
捜査に当たるのは、警視庁・木村伝兵衛部長刑事(荒井敦史)、その部下の婦人警官水野朋子(能條愛未/向井地美音(AKB48))、そして、その日富山県警から警視庁へ転属してきた熊田留吉刑事(多和田任益(梅棒))。
出演者は4名、劇中で水野朋子が山口アイ子を演じる。
熱海殺人事件について
本作の基になっている『熱海殺人事件』は1973年11月初演というから、今から50年近く前になる。
作者のつかこうへいは本作にて1974年の第十八回岸田戯曲賞を受賞した。
その初演はつか自ら上演したものではなく、文学座の上演だった。
これに対し、当時つかのもとで役者をしていた長谷川康夫が違った見方をしている。
本当のところはどうだったのか?
つかは真意を語らないまま、旅立ってしまった……
なお、2021年8月19日付の朝日新聞夕刊によると、「文学座アトリエの会」が48年ぶりに『熱海殺人事件』を再創造するとのこと(2021年9月2~14日。演出は稲葉賀恵)。
『初演版台本を再構成し、初演のメンバーだった角野卓三や故金内喜久夫にも話を聞いた。その上で現代に通じる上演を目指す』。
「アイドル」が「アイ子」を演じる意味
この、50年近く改訂を繰り返し上演され続けてきた本作においてストーリーの核となるのは「『職工』大山金太郎が、『女工』山口アイ子を絞殺する動機」である。
二人は長崎県五島列島の島で育った幼なじみで、集団就職で上京してきた。そして、大山金太郎が山口アイ子を殺す動機の一つが「都会に馴染めない田舎者」であることも劇中で示唆される。
ここのところのバージョンでは「職工」「女工」という職業上の序列が描かれていて、「都会に残る決意をした」アイ子が、「都会に馴染めず、島に帰りたい」大山を詰ったことが発端になっており、つまりは「(非正規雇用などで社会から虐げられる存在としての)男性側の悲哀」が描かれていた。
ところが、今回はそれ以上に女性差別・蔑視の問題が大きくクローズアップされ、「コケ」のアイ子をとおして、『「職工」という社会から虐げられている存在の男からも、女性は虐げられてしまう』という「女性の悲哀」が描かれている。
しかし、グループ間だけでなく、グループ内の序列も、投票などで詳らかにされる「アイドルグループのメンバー」を「コケ」で追い込むのは、結構思いきった演出である。「アイドル」という存在で、あのシーンのアイ子のセリフを言うのは、自分の内面を自身で追い込んでいく必要があり、かなりキツイのではないだろうか。
だからこそ逆に、普段、他のメンバーと比較され、ファンやマスコミから「コケ」扱いされて心無い言葉(たとえそれが、事実と異なる面白半分の揶揄だったとしても)を投げかけられているであろうアイドル本人とシンクロして、迫真の演技となったとも言える。
だからこそ、『うちはコケじゃなかぁ』と絶叫するアイ子に観客はより一層共感し、涙を流す。
意外な展開
大山がアイ子を絞殺したシーンで「平凡な事件」が「いっぱしの事件」に変貌を遂げるのだが、この後、誰も予想できない(まぁ本作全体を通して予想不能なことだらけなのだが)クライマックスを迎える。
もうこれなんか完全に、観ていない人には何も理解できないだろう。
というか、実際に目の前で起きているのを観ていても全然理解できないのだが、ここまでの展開と役者の熱演、ドラマチックな音楽・照明で、観客は「頭で理解」じゃなく「心で納得させられ」て、無条件に感動してしまうのである。
なので、本作終演後、観客は、「すごかった」「感動した」「泣けた」などと口々に言い合いながら劇場を後にすれば良いのだ。
何も解釈する必要などない。
と、わかってはいるものの、野暮を承知で先に挙げた鴻上氏の著書から、氏の「夢想」を紹介する。
もちろん、本作に「正解の観方・解釈」というものは存在しない。
約50年の間、評論家・素人関係なく、あらゆる人があれこれ言ってきた。
これは、その中の一つでしかないこと、重々ご承知置きを。
くれぐれも「こういう芝居なんです!」などと断定口調で、どこかに書き込んだりしないように!
鴻上氏の「夢想」は『つかさんが在日である』事を着想点としている。
そして、この怒りと屈折を全く理解しない木村伝兵衛は『東京人というより、日本人』、水野朋子は『在日を理解しようとしている日本人』、熊田留吉は『田舎に誇りを持ち、東京と戦おうと思っているのですから、誇りを持った在日』であると「夢想」する。
そして、大山が『日本にいて、どう日本と向き合ったらいいか分からない在日』であるのに対し、『同じ貧しさの中で、自分の歴史を変えようとする』アイ子は、『もう村の話を(祖国の話を)金ちゃんから聞くのが嫌なのです』。
そう考えると、アイ子の『うちはコケじゃなかぁ!』の絶叫は、果たして物語どおり「自身の職業及びそのランクを否定している」だけなのか? と深読みもできてしまう。
さらに、大山がアイ子から「金ちゃん」と呼ばれていることについて、鴻上氏はこう示唆する。
それを前提に、先に挙げたクライマックスのシーンを振り返る。
念を押すが、これは「観客の勝手な解釈の一つ」でしかない。
しかも今回の『新』では若干当て嵌まらない部分もあるのだが、それでも、この解釈で以降ラストシーンまでを観ると、違った観方ができるのも事実である。
たとえば……
木村伝兵衛部長刑事は、大山金太郎に『俺を立てろ』と言う。
『立てられてるうちは俺も無茶はしない』と。
ラストシーン。
熊田留吉刑事に火をつけてもらった煙草を、木村伝兵衛部長刑事が一口吸って『タールが強い!』と灰皿に押し付けて(或いは、床に叩きつけて)しまう。
そして、『君の優しい心がガスを変えるんだ』とやり直しを命じる。
再び火をつけてもらった木村伝兵衛部長刑事は、深く煙草を吸って一言。『うん、いい火加減だ!』
……まぁ、どう解釈しようと、観客個々の自由である。
むしろ、色々と自由に解釈ができるからこそ、50年近くも色褪せずに上演され続けているのである。
それにしても、なんと切ない物語なのだろう。
アイ子は、ただ金ちゃんと『一度でいいから腕を組んで砂浜を歩きたかった』だけなのだ。
ただそれだけの、本当にささやかな「夢」で、ひと時でも「孤独という絶望的な現実」を忘れられると、そして大好きな金ちゃんならそれを叶えて現実から救ってくれると信じていたのだ。
それなのに、「男として女に威張ってみせる」ことで世間を見返えそうとすることしか頭になかった金ちゃんは、アイ子の『一人で見るのは怖いから』の言葉に込められた彼女の心の叫びに気がついて救ってあげるどころか、永久に「孤独の世界」の中に閉じ込めてしまった……
一度下りた幕が上がり、カーテンコール。部長刑事の机に置かれた灰皿の上で煙草の煙が揺れている。出演者全員の挨拶が終わると、その煙草にライトが当たる。
誰もいないはずの部長刑事の席に、「どうだ、おもしろかっただろ?」と得意げに笑うつかこうへい氏が座っているのが見えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?