「想像力」を取り戻す~舞台『未来少年コナン』~

1970年生まれの私だが、正直に言うと、1978年に放送された日本アニメーション制作の『未来少年コナン』(宮崎駿監督、中野顕彰・胡桃哲・吉川惣司脚本)を、ほとんど見た記憶がない。今となっては理由はわからないが、恐らく、幼な過ぎた(アニメの対象年齢的にもそうだが、私自身の精神年齢は実年齢より随分幼かった)のだろうと思う。

そんな私が、舞台『未来少年コナン』(伊藤靖朗脚本、インバル・ピント演出・振付・美術、ダビッド・マンブッフ演出。以下、本作)を観たのだが、だから本稿は、原作には一切言及しないで、舞台版のみの感想となる。

『未来少年コナン』については、本作公式ページにて以下のように紹介されている。

「未来少年コナン」は、日本アニメーション制作により1978年に宮崎駿が初監督したアニメーションシリーズ。躍動感あふれる描写や、世界観など、その後の宮崎作品へと受け継がれている要素がぎっしり詰まった名作として知られている。また、地震や津波などの自然災害や戦争、エネルギー問題などが物語に取り入れられており、現代の我々にも刺さるテーマを冒険活劇として表現し、子供から大人まで、老若男女問わず長きにわたり多くのファンに支持されている。

その上で、本作あらすじをパンフレットより引用する(俳優名は引用者が追記)。

西暦20XX年、人類は超磁力兵器を使用し、地球の地殻を破壊、大変動が起こった。
五つの大陸はことごとく海の底に沈み、栄華を誇った人類の文明は滅び去った。
それから20年後、孤島・のこされ島では少年コナン(加藤清史郎)が育ての親・おじい(椎名桔平)と二人で暮らしていたが、ある日、謎の少女ラナ(影山優佳)が島に流れ着き、コナンの運命が動き出す。
島には工業都市インダストリアから行政局次長モンスリー(門脇麦)が飛来して、ラナを誘拐してしまう。
コナンはラナを助け出すため、いかだに乗って冒険の旅に出ることに。
自然に溢れたラナの故郷・ハイハーバーには、天才科学者・ブライアック・ラオ博士(椎名二役)の居どころを探すインダストリアの行政局長レプカ(今井朋彦)率いる兵士たちが襲いかかる。
コナンは野生児・ジムシー(成河)やインダストリアの貿易局員・船長ダイス(宮尾俊太郎)などと出会い、大切な人を守るために様々な困難に立ち向かってゆく。

私の舞台感想文では、「見立て」という言葉を好んで使うが、本作はまさに「見立て」で出来ている。

演出・振付が舞台『ねじまき鳥クロニクル』(2020,23年)を手がけたインバル・ピントということもあり、コンテンポラリーダンスによって表現されている(とはいえ本作のダンスは、世界観の違いから『ねじまき~』の抽象的なものよりは直截的になっている。途中のタンゴは洒落ていた。まさか、あのタンゴが結末の伏線になっていようとは……)。

そのノンバーバルな演出は、すでに片足を突っ込んでいる現実の世界中(=地球)の近未来を想起させる物語世界を意識していると思われ、従って、セリフもトランスレーション可能な端的で説明的なものとなっている。

つまり、本作の物語は、"わかりやすい""直截的な"セリフや芝居で語られない。
そのため、人によっては「不親切」「難解」という感想を持つだろう。
しかし、それこそがまさに、本作が提示する「問題」である。

つまり、ノンバーバルを「わかる」(理解ではなく感じ取ること)ためには、「想像力」が必要となるが、現代を生きる我々は、日々テレビやネットなどで「言葉で説明される」ことに慣れ切って、想像力が機能しなくなっているのではないか。

そのことに気がつかせてくれるのが、舞台上手かみて(舞台に向かって右手側)袖で行われている「生身の人間による"フォーリー"」である。
"フォーリー"とは簡単に言えば「音効」のことで、「小豆の入った竹ざるで波の音を再現する」というのをテレビなどで見たことがあると思うが、本作はまさにそれを舞台上で実演しているのだ。
生身の"フォーリー"を見ながら舞台を観れば、その"フォーリー"が何を表現しているのかが「わかる」。
何故「わかる」のかといえば、観客が想像するからだ。

これらを踏まえて本作を俯瞰すれば、コナンやハイハーバーの人々は"わかる"のではなく"感じる"「古代人」、対してインダストリアの人々は過度の"わかる"を経て自分で"わかる"ことをしなくなった「近未来人」となる。

この「古代」と「近未来」の両極が対峙する物語はしかし、二幕の途中で思わぬ展開を見せる。
それを担うのがモンスリーで、それまで物語は上記したように端的で説明的なセリフで構成されていたが、いきなり「自分」を語り始めるのだ。
それは、地殻大変動が起きた当日の彼女の記憶なのだが、セットも演技もない、ただ「独白」のそれが、(恐らく1995年以降の日本人の記憶として)観客の眼前にリアルな景色を立ち上げてしまう。
そこで我々観客は「想像力」を取り戻す。
続けて彼女が語るのは「文学」であり、それはつまり「内面」を意味する。
「内面」というのは近代文学が発見或いは発明したもので、つまりそれまでの「古代」と「近未来」の結節点として「近代(現代)」が立ち現れる。

最終的にこの「近代(現代)」人(つまり、本作を観ている我々)が歴史を変えるキーマンだと示唆される。

ここで重要なのはモンスリーはインダストリアの行政局次長であったということで、だから彼女は近未来から近代(現代)へと戻って来たことになる。
ここで示唆されるのは、ネットやSNSによって自ら思考すること想像することを放棄し始めている(つまり考えたり想像したりすることなく、本作を「不親切」「難解」と決めつけてしまう)我々の行き着く先が、インダストリアなのではないか、ということだ。
そして、その状況から内面を取り戻すモンスリーは、「今なら間に合う」という警告でもある。

「古代」vs.「近未来」のクライマックスからの結末は、つまり、我々に「想像力を取り戻せ」という強烈なメッセージとなる。

メモ

舞台『未来少年コナン』
2024年5月29日 ソワレ。@東京芸術劇場プレイハウス

「古代」vs.「近未来」のクライマックス。
どう終わらせるんだろう、と不安になった。というのは、ここへ来て「昔に還れ」はあまりに非現実的だと思ったからだ。
だから、物語を終わらせるためには、あれしかなかったな、と思う。
というか、あの結末で心底ホッとした(それが原作どおりなのかどうかは知らない)。

ハイハーバーの人々が「古代」なのは、ラナがラオ博士の心の声を聞きながら技術者に指示を出して太陽エネルギーを復活させるところなど、まさに神の声を聞いて政治を行っていた古代の巫女そのものである。

あと、これも原作どおりなのかわからないが、最終盤のコナンとの対決シーンで語られるレプカの論理を聞きながら、中国の文化大革命を思い出していた(文革はWikipediaによると、1966~76年までで77年に終結宣言が出されたとある。本作の原作アニメ放送開始は1978年)。

舞台の作り方も上手くて、一幕序盤が舞台前方に下ろされた幕の前で展開するのは、つまり、コナンの世界が狭いからである。いかだで冒険に出てから幕が上がって舞台全体が広がるのは、つまり、コナンの世界が広がったことを端的に表現しているからだ。


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