「胸がスカッとする」喜劇~舞台『腹黒弁天町』~

2020年代に入ってから、何故か劇団「ラッパ屋」が1994年に初演した作品(劇団主宰者の鈴木聡作)が、立て続けにパルコ・プロデュースで上演されている。

2021年1月に『阿呆浪士』(第18回公演。@青山円形劇場)が新国立劇場で(ラサール石井演出)。
2022年2月には『腹黒弁天町』(第17回公演。@シアタートップス)が紀伊国屋ホールで(松村武演出)。
そして、2022年4月には『三十郎大活劇』(第19回公演。@青山円形劇場)が、新国立劇場で上演される予定(ラサール石井演出)。

パルコはよっぽどラッパ屋がお好きらしく、2009年に『斎藤幸子』(2001年初演。@シアタートップス)をルテアトル銀座で(河原雅彦演出)、2017年に『サクラパパオー』(1993年初演。@シアタートップス)を東京国際フォーラム ホールCで(中屋敷法仁演出)上演している。
また、『サクラ~』は、2001年に鈴木自身の演出によるパルコ・プロデュース公演で上演されている(@パルコ劇場)。
列記して気づいたのだが、劇団公演含め全て観ていた(上演予定の『三十郎~』を除く)……

何が魅力なのか?
それは、劇団ラッパ屋の芝居は「喜劇」だと公言している、主宰者で作演出家の鈴木聡の信条に表れているのではないか。

喜劇は、なにがなんでもお客さんに希望を提出しなきゃいけない。(僕の信条です。なにしろ喜ばしい劇ですからね)。

ラッパ屋2021年公演『コメンテーターズ』パンフレットより

もう一つ。
例えるなら、荒井(松任谷)由実の名曲『卒業写真』(1975年)の歌詞に出てくる『人ごみに流されて変わってゆく私』を『遠くで叱』らず、肯定してしまうという、ラッパ屋の特徴が理由ではないか。

それは、ラッパ屋が「サラリーマン新劇喇叭屋」と名乗って旗揚げした当時(1984年頃)、鈴木を含め劇団員のほとんどが実際のサラリーマンだったことにも関係する(鈴木は博報堂の社員でコピーライターをしていた)。
だから、大学の演劇サークル出身(ラッパ屋の母体は早稲田大学演劇集団「てあとろ50'」。余談だが、「演劇集団キャラメルボックス」も「てあとろ50'」出身で、看板女優の大森美紀子はラッパ屋の旗揚げメンバー)でありながら、就職せず(バイトなどで食いつなぎながら)芝居を続けてきた他の小劇場系の劇団とは違い、むやみに社会を敵視するような「変な青臭さ」がない。

前置きが長くなったが、『腹黒弁天町』(以下、本作)にその特徴がハッキリ現れているのである。


本作は、夏目漱石の名作『坊ちゃん』をモチーフに、2人の「青臭い」新米教師が、赴任先の校長や教頭(つまり『人ごみ』)の「腹黒さ」に揉まれるうちに、「変わっていく」喜劇である。

東京出身の財前涼太(福田悠太(ふぉ~ゆ~))と山岡大輔(辰巳雄大(ふぉ~ゆ~))は、モラトリアムを拗らせ過ぎてなかなか職が見つからず、最終的に「都落ち」の状態で、広島の「弁天町」にある中学校の教師になる。

弁天町は地元でも有数の歓楽街で、町の人々は何かにつけて弁天町の芸者を呼び、宴会に興じる。
町の有力者たちは、花街で一番の人気芸者・小雪(伊勢佳世)の気を惹こうと躍起になっている。
それを知っている町の人々は、小雪を利用して有力者たちに取り入ろうと腹黒く画策する。
もちろん、校長(中村まこと)と取り巻きの教頭(土屋佑壱)もその一人。
議員選挙に打って出た校長は、スポンサーとなってくれた大金田(木村靖司。ラッパ屋劇団員で初演の山岡役)から多額の資金を引き出すために、小雪を利用する(大金田が小雪を見初める「大金田、小金田、大雪、小雪」のひと件は、ものすごくイイ場面。全編において小雪はとてもチャーミングで、女性客も好きになっただろう)。
若くて一本気な財前と山岡は、下衆な田舎者たちを見下し、そういった世界に染まらないよう同盟を結び友情を深めていく。

と、熱血漢すぎる若者たちが、下衆で腹黒い世の中を成敗するかと期待させる始まりを見せた物語は、財前と小雪が互いに一目惚れしてしまうところから、『近松心中物語』の様相を呈する。
小雪と大金田の仲に割って入った財前は、大金田を利用しようとしていた校長の怒りを買い、学校からも町からも姿を消してしまう。
残された山岡は本性を開放し、校長・教頭に自ら進んで取り入ってしまう。

鈴木は腹黒い世間に自ら染まっていく山岡を悪く書かない。叱りもしない。
むしろ「変わって当然」(喜劇だから変わり方が極端ではあるが)と肯定する。
その肯定が、「汚い世間に染まらず純真に生きろ」と無責任に煽る世間の(ある種、若者の不安を突いた腹黒い)「真っ当な生き様像」を信じ込み、それに反して変わってしまいそうな自分に罪悪感を抱いている観客たちを、「変わっていいんだ」と肯定する。
観客は、山岡の「堂々と世間に染まる」清々しさと、それを全肯定する大団円に「胸がスカッとする」のである。

そこに、2020年代にラッパ屋の作品が相次いで上演される理由があるのではないか。

ネット空間に溢れた「かくあらねばならぬ」的言説がリアル社会にまで浸透し始めていて、そこから逸脱した人々を激しく糾弾する"炎上"が日常化している。
そんな現代を生きる人々は、大した根拠もなく「かくあらねばならぬ」空気にがんじがらめにされている。
その窮屈さに苦悶する人々が、ラッパ屋の芝居で解放された気持ちになるのではないか。

一方の財前は、先述のとおり『近松心中物語』を彷彿させる悲劇へと突き進むが、最終的に「お涙ちょうだい」ではなく「胸がスカッとする」結末に至る(だって、鈴木聡の信条は『希望を提出しなきゃいけない』なのだから)。
悲劇ではなく喜劇として昇華するのは、2人が「行く末に絶望した」からではなく「互いの腹白さを証明するため」、つまり「希望を見せ合うため」に事に及ぶからである(全然関係ないが広島つながりで、つかこうへい作『広島に原爆を落とす日』のクライマックス、犬子恨一郎が髪百合子の頭上に原爆を投下することによって、彼女への愛を貫くシーンを思い出した)。

そしてもう一つ「胸がスカッとする」のが、女性教師・篠崎美智子(伊藤純奈)の転身だ。
男中心の時代にあって、彼女も男が求める「女性」を演じてきた。
そんな自分が嫌いだった彼女は、一念発起し「男性に従う女性」ではなく「男性を従わせる女性」へ鮮やかに転身する。

本作、主演の2人が目当てなのか女性客が多かったのだが、彼女たちもきっと、小雪のチャーミングさに胸をときめかせ、篠崎の転身に希望を持ったことだろう。

時代や経済的な事情に加え、コロナ禍で閉塞感が充満した世の中にあって、胸がスカッとして劇場を後にできる、そんなラッパ屋の作品が2020年代に求められているのかもしれない。


メモ

舞台「腹黒弁天町」
2022年2月19日。@新宿・紀伊国屋ホール

ラッパ屋は本作初演を含めシアタートップスでの上演作も多いが、トップス閉館(2009年。2021年再開)の少し前に、近所の紀伊国屋ホールに進出した。
ラッパ屋の常打ち小屋で上演された本作を観て、「やっぱりラッパ屋の芝居はこのクラスの劇場が似合う」と改めて感じた(個人的には、新国立劇場中劇場クラスはちょっと大きいかなと思う)。

出典:『ラッパ屋図鑑』(2000年)
1994年は3本も新作を上演していたんだなぁ。


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