「なろう系」魔世界転生物語の最高峰~舞台『広島ジャンゴ2022』~

舞台『広島ジャンゴ2022』(蓬莱竜太作・演出。以下、本作)は、まさに"今現在"の世界情勢と重なる物語だった。
と同時に、物語の構造は日本のネット世界を中心とした文学の一つのジャンルともなっている「なろう系」の最高峰版とも言えるのではないか。

ちなみに「なろう系」とは、AERAの2021年2月19日配信記事『「なろう系小説」が映し出す日本の空気 人生「何も起きない」諦めに近い価値観が反映』によると、『小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿される小説(「なろう系」と呼ばれる)が「魔世界転生もの」など、世界観が画一的』なのだそうだ。
本作が「転生」したのは、「魔世界」ではなく「西部劇世界」であるが、
『異世界というフィクションの中であっても『自分の生活は5年後、10年後も変わらない、すごいことなんて何も起きない』という諦めにも近い価値観』(同記事)は、そのまま本作にも通じている。


本作で転生するのは、主人公(の一人)であり狂言回しでもある、木村(鈴木亮平)である。
現実世界の木村は、広島の牡蠣工場で従業員のシフトを采配する担当者。
この工場は、「家族的組織」を謳うが、その実、工場長(仲村トオル)が自身の考えを従業員に強制する、ワンマン(独裁)経営である。
工場長はまさに金(現金支給のボーナス)と権力(人事権)で従業員を支配し、従業員は皆、彼の顔色を伺い、軽い冗談程度の反論すらできない。

そこへ東京から来た山本(天海祐希)という女性が従業員に加わる。
しかし、重い事情を抱えている(らしい)彼女は、工場長の鶴の一声で催される「懇親会」への参加を断固拒否する。
懇親会が開かれれば従業員には現金でボーナスが手渡されるが、工場長は「全員参加が条件」で、彼女が参加しないなら懇親会は開かないと言い出す。
木村は、工場長だけでなくボーナスが欲しい従業員からの圧力もあり、山本を参加させるか、さもなければ解雇するか、の選択を迫られる。
工場長の意に沿えなければ、自身の立場も危うくなる……

強烈な迷いから逃避すべく、お気に入りの西部劇映画を見始めた木村は、いつの間にか、西部劇の世界へ「転生」していた。
その世界の住人は、全て牡蠣工場の従業員たちだった……

と、長々と物語の導入を紹介したが、まさに「なろう系」における「魔世界転生」に通じる。

さらに言えば、転生後の世界でも木村はヒーローどころか、主役ですらない。と言うか、人間ですらない。
彼は、「お尋ね者」として賞金が駆けられている山本そっくりな女性ガンマン・ジャンヌに従う、「ディカプリオ」という名の「馬」に転生してしまう。
木村自身が見た自分は「人間」なのに、他の人からは「馬」に見える。
しかし、言葉は通じるため、住人から「喋る馬」と驚かれる始末。

木村が転生した「広島」も、現実の牡蠣工場と同じく、工場長そっくりの市長が牛耳る街だった。
市長は、街の川が原因不明で突然干上がったために起こった水不足につけ込み、堀った井戸から汲んだ水を高額で売りつけるなど、市民を支配する。
そこに、追っ手から逃げ続けるジャンヌとその娘ケイ(芋生悠)が、ディカプリオという名の「喋る馬」(=木村)を連れてやってくる。
どうやらジャンヌは、「広島」に縁があるらしいが、謎だらけの女性だ。

何故彼女は「お尋ね者」になったのか?
何故「広島」の川は干上がってしまったのか?
物語は、その謎の解明を背景にしながら、何故木村が「西部劇世界」に転生してしまったのか、転生後に「馬」として彼がどう生き、どう成長したのか、あるいは成長しなかったのか、の結末に至る。

物語は、一見、アコギなやり方で市民を支配する極悪市長を、「旅人」であるジャンヌが成敗する「勧善懲悪」構造とも思える(それが「西部劇」の構造だ。ちなみに、日本ではこの役割を「時代劇」が担っている。「旅人」が訪れた土地の面倒事に巻き込まれる代表格は『水戸黄門』だが、「旅人」が面倒事に関わることを嫌う本作は、どちらかといえば『木枯らし紋次郎』に近い……と個人的には思う)。

しかし、本作が「魔世界転生系」の「ファンタジー」であることを考えると、違う見方もできる。
市長の死と「広島」の干上がった川の顛末という物語の展開からすれば、「魔力で土地を支配していた魔女を退治して、元の土地に戻す」的な「童話」に近いとも考えられる。

同じ「水」をキーワードにすれば、たとえば、水を掛けられた「西の悪い魔女」が死んだ後、魔法によって手下にされていたウィンキーが元に戻る『オズの魔法使い』(竜巻でオズの国に飛ばされる「魔世界転生」系)的な物語ともいえる。

ちなみに、『オズの魔法使い』は、主人公・ドロシーの明確な成長は描かれず、見方によっては単に「家に帰れた」だけであり「変わらない日常が続く」といった「なろう系」の結末とも受け取れる。
本作も現実世界に戻ってきた木村の現状は変わらないどころか、相変わらずの山本の懇親会拒否に対し転生時の経験が影響を及ぼし、さらなる悪化を招く。

だから、物語の結末にカタルシスはなく、まさに「なろう系」の『自分の生活は5年後、10年後も変わらない、すごいことなんて何も起きない』そのものだ。
しかし、かかし・ブリキ男・ライオンと旅をしたドロシー同様、木村もジャンゴたちと過ごす中で、目には見えないけれど何かが成長しているはずだ(
もちろんジャンゴだった山本も)。
本作、大きなカタルシスはないが、そんな二人のささやかな「希望」を仄めかせて幕を下ろす。
その結末は、先が見えず不安しかない現実世界の『2022』でも感じることができたら、という願いを託した作者の「希望」なのかもしれない。


メモ

舞台『広島ジャンゴ2022』
2022年4月13日。@Bunkamuraシアターコクーン

とにかく俳優陣のバランスが秀逸。
主役級にベテランの天海祐希・鈴木亮平・仲村トオル(物語がそう出来ているからだが、途中で席を立ちたくなる程の悪役ぶりは圧巻)を配置し、中堅の藤井隆、中村ゆり(2008年の初舞台『1945』からほぼ出演舞台を観ているが、凛とした佇まいからどんな役でも気高く見える)らで物語の安定感を高め、娘役として芋生悠(乗るのは「ボート」ではなく「馬」)、北香那(テレビ東京系の人気ドラマ『バイプレイヤーズ』のジャスミン役でおなじみ)のフレッシュな若手が躍動する。
さらに舞台を中心に活動する俳優たちが芝居を下支えする。
このバランスが、重たい物語を絶望から救っていると思う。

本作、独裁・パワハラ・セクハラ・暴力・過労働による自殺・強姦(未遂)等々、救いのないエピソード満載の物語だが、その中にあって観客は笑う。
その笑いのポイントはほとんど、「人間なのに馬」で無理矢理押しとおす力技の物語に、本人(馬)すら入れない木村という、位相の歪み(しかも木村自身がそれを自覚している)を利用して意図的に作られたものだ。
それをわかっていてなお、私には笑うのが難しかった。
だが観客は笑う。
「素人観客が!」とムカつきそうになったが、そういうポイントですら笑えない私の方こそ、「観劇慣れした者的な勘違いのプライド」という「魔法」に支配されている……

ちなみに「力技の馬」で私が思い出すのは、後藤ひろひと”大王"の「馬」だ。

なお、私は「なろう系」を読んだことはないので解釈が間違っていたらすみません。

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