「帰れない男」は誰だ?~舞台『帰れない男~慰留と斡旋の攻防~』~
舞台『帰れない男~慰留と斡旋の攻防~』(倉持裕作・演出。以下、本作)。
一体、誰が『帰れない男』なのか?
時代は昭和初期。
物語は、本当の女中・文子(佐藤直子)と書生的居候・石森(新名基浩)を加え、6人で展開される。
舞台は野坂が案内されて居ついてしまう座敷を中心とし、観客席側に部屋を囲むような廊下があり、舞台奥側に障子窓を隔てて庭、そしてその奥にまた向かいの座敷と思われる障子窓。
廊下側は部屋の両側に柱があるのみで壁はない。部屋側の障子窓も格子枠だけで障子は貼られていない。向かい座敷側の障子窓にはちゃんと障子が貼られていて、観客はその窓までを見通すことができる。
つまり、観客は壁や障子窓を見立てながら、野坂が居ついてしまう部屋を透視できる構造になっているが、事はそんなに単純ではない。
観客側から見ると奥に「屋敷の外」=屋敷の住人から見ると「表」、同じく手前に「屋敷の内」=「裏」という舞台の造りこそ、この物語全体の構造を表している。
結果、観客は普段外部の人間には見せない「裏」の表情・言動越しに物語を見ることになる(部屋に出入りするための廊下が手前に設えられていることによって、屋敷の住人らが野坂に見せない顔を持っていることが強調され、故に観客は、彼らが野坂に対して何らか意図を持って接しているらしいと疑念を抱く)。
登場人物が「表側(「上座」と言い換えてもいい)」に向かって話をする場合、必然的に観客に背を向けることになり、我々はその表情を窺うことができない。
反対に我々は、登場人物が他の人に悟られない(或いは拒否する)ために「壁(=裏)」に向いている時の表情を観ることになる。
つまり本作は、通常の物語が見せるものを見せず、見せないものを見せてしまっている。
今「しまっている」と書いたが、だから物語の世界観は「予め反転していた」のではなく「図らずとも反転してしまった」のである。
繰り返して言うが、物語の反転は、意図されたものではない。
だから、いつの間にか帰ってきた者が迎える者になっているし、いつの間にか問うた者が問われた者になっているし、いつの間にかした者がされた者になっている。
金持ちの男が自分の半分以下しか人生を送っていない若い後妻と再婚するのは昭和初期では珍しいことではなかったろうが、山室は勝手にそれを特殊なことにしてしまい、普通なら考えないことを考えてしまう。
そしてそれはいつの間にか妻にとっても日常になり、普通なら背徳になることが、夫婦間の絆を確かめる手段になる。
そして、夫婦間の暗黙の了解による遊び(ゲーム)だったその手段は、いつの間にか本気に転じていた。
そう転じさせた張本人である野坂は、本来帰るべき者であるはずが、だから、帰れなくなる……のではなく、帰らなくなる。
反対に居ていい者が失踪し……たと思った物語はさらに反転し、「表」である場所で「裏」の行為が行われ、人物たちが隠している物が見えてしまう。
最終盤。
居るべき者が居場所を失い、それによって、居るべきでない、本来は帰るべき者だった「帰らない男」が「帰れない男」ーつまり「居ていい男」-に転じる。
そして遂に、居場所を失った居るべき者は、もうどこにも「帰れない男」になってしまった……
メモ
舞台『帰れない男~慰留と斡旋の攻防~』
2024年4月20日 マチネ。@本多劇場
本文で「図らずとも反転してしまった」と書いた。
それに気づいたのは、序盤で、仕事から帰宅して部屋にいた山室が、後から入ってきた妻を迎え入れたあと、ハッとしたように『帰ってきたのは私だった』と言ったシーンだった。
これは、物語世界は最初から反転しているのではなく、流れの中で「図らずとも反転してしまう」ことを示唆している。
と共に、彼自身が『帰る』ことに関与していることをも示唆している。
加えて、本来なら登場人物たちのやり取りを通じて、観客は各人物の性格や本音、真の狙いなどを知っていくが、部屋に通じる廊下が観客側にあることによって、登場人物たちのやり取りがない場所でそれらを知っていくという反転・倒錯が生じる。
さらに言えば、野坂が書いた小説はこの部屋で起こったことを基にして書かれているという設定だが、それによって本作の物語と本作パンフレット(表紙をご覧下さい)までもが倒錯してしまう。
ヒロイン・瑞枝を演じた藤間爽子さんを初めて観たのは、確か阿佐ヶ谷スパイダース(彼女は劇団員でもある)の『桜姫 燃焦旋律隊殺於焼跡』(長塚圭史作・演出、2019年)だった。
そのときの彼女は、演技が上手い(もちろん当時から上手かったが)ではなく、「生々しいなぁ」という印象だった。
本作でも、やっぱり私から見て彼女は「生々しい」存在だった。
補足
本文で舞台構造について書いたが、『帰れない』というのは、まさにこの舞台構造に現れている(まぁ、物語の設定自体が『迷子になるほど中が広大』な屋敷、だし)。
まず、本文にも書いたが、「外」に通じている庭は舞台奥にあり、さらに向いの障子窓に挟まれ「閉ざされている」。
通常の舞台は、庭や通りが観客側にあり、その奥(または背景)に建物がある場合が多い。
物語の舞台が室内であったとしても、意外と縁側などで外に通じていたりするし、玄関や部屋のドアが設えられていて、つまり「外」への回路が開かれている。
しかし本作は、庭の先にあるであろう「門」が描かれない(というか、そもそも物語上、観客が「門」を想像することはない)し、ぐるりと部屋を囲むように設えられた廊下の先にあるはずの玄関も見えない。
それどころか、実は、廊下に通じる「ドア(襖)」すら舞台上に存在しない。
舞台上で「開く」のは、障子が貼られたのを含めた「窓」と、階段の壁側にある「戸棚」だけである。
外へ通じているのは障子窓だが、障子が貼られた奥のは、結局、屋内に通じている。
というか、それ以前に窓は出入りするためのものではない。
外へ行くために窓を利用するのは通常、「帰る」ためではなく、「逃げる」或いは「避難する」ためである(実際、本作でもそういう使われ方をする)。
つまり本作は、舞台セットの構造から既に『帰れない』という強烈なメッセージを発しているのである。
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