ミュージカル『のだめカンタービレ』

最初に断っておく。
私は、ミュージカル『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子原作、上田一豪脚本・演出。以下、本作)の原作漫画、アニメ、ドラマ、映画……一切見たことがない。あんなにブームにもなったにも拘わらず、だ。
そんな私が、観劇が趣味だからと、いや正直に言えば(意外にも初舞台だという)上野樹里見たさのミーハー心だけで本作を観た、その感想を書いている。
だから、原作やドラマのファンからすれば「違うだろ!」という部分が多々あると思うが、そういった事情なので、勘弁してほしい。

……と、予防線を張っておいた上で、だから本稿では、「何も予備知識の無い50歳超えのオヤジが本作をどう理解したか」ということを書こうと思う。なお、何せ予備知識がないので不用意に本作のエピソードを書くと「ネタバレ」になりそうなので、極力それを回避しながら進めていく。

ちなみに、本作パンフレットに掲載されている「あらすじ」はこうだ(俳優名は引用者が追記)。

音楽大学のピアノ科に在籍しながら指揮者を目指すエリート学生・千秋真一(三浦宏規)はある日、酔って自宅の前で眠ってしまい、目覚めると、ゴミの山と悪臭が漂う部屋の中で、美しいピアノソナタを奏でる女性と出会う。
彼女の名前は野田恵のだめ(上野樹里)で、千秋と同じマンションの隣室に住み、同じ音大のピアノ科に在籍していたのだった。
千秋はのだめの中に秘めた天賦の才を感じ取り、そしてのだめは千秋の外見と音楽の才能に憧れ、彼にまとわり付くようになる。
過去のトラウマから千秋は将来に行き詰まりを感じていたが、のだめとの出会いを機に音大の変人たちと運命を変える指導者に出会い、音楽の楽しさを思い出しながら、指揮者への道を一歩一歩、切り拓き始めて行く。
またのだめも千秋から大きな刺激を受け、新しい環境でピアノに励み、それぞれ成長をして行くのだったが-。

本作は二幕制になっており、大雑把に言えば、上記あらすじの『~指揮者に出会』うところまでが一幕、以降が二幕となる。

全編通して言えるのは、これは「千秋先輩の成長物語」だということと、各エピソードはおおよそ(主に昭和の)漫画の定型で説明できることだ。

まず、一幕序盤は、千秋先輩を中心にして、のだめ側が「少女マンガ」、峰龍太郎(有澤樟太郎)側が「少年(不良)マンガ」となる。
「少女マンガ」側は、才能ある実力者が少し変わり者で異質の少女の中に才能を見いだす、という定型(無邪気にピアノを弾く姿が、公園で子どもたちに劇を披露する少女の中にある才能を、かつての名女優が見出す、という『ガラスの仮面』に重なる)。
才能を見いだされたことを異性として認めてくれたことと誤解して、一方的に好きになって追いかけ回すのは、ラブコメの定型。
「少年(不良)マンガ」は、反目し合っていた二人が一緒に音楽を演奏することで互いを認める、という定型(つまり、ケンカの果てに「お前、いい奴だな」と認め合い親友になる構造)。
のだめ-千秋先輩-峰は、左記の通り、一つの軸によって貫かれている。
それは「音楽を指示通りに演奏しない」ということで、のだめは「才能」、峰は「反抗」、その間にいる千秋先輩はもちろん二人を足した「才能+反抗=思い上がり」。
のだめと峰は、その中心にいる千秋先輩によって改心するが、二人は千秋先輩に影響を与えることができない。その役目を果たすのが、ミルヒーことフランツ・フォン・シュトレーゼマン(竹中直人)である(彼はのだめの才能を見抜いており、だからその意味においても、千秋先輩を軸として、のだめとの関係性の逆転構造になっている)。

しかし、ミルヒーは千秋先輩に気づきを与えただけで寄り添うことなく退場してしまう。
という展開で始まる二幕は、千秋先輩も含めた青春恋愛群像劇となり、のだめはそこから排除される(とはいえ、その青春恋愛群像劇は、途中でメンバー全員が挫折した(ように示唆される)ことにより、ある意味で「選ばれなかった者(落ちこぼれ)たちがチームを組み、選ばれた者たちを見返す」という構造にもなっている)。

そして、排除されたのだめは、千秋先輩のためにという想いを内に秘め、それをモチベーションにして、指導者(なだぎ武)から熱血指導を受け、才能を開花させてゆく。

……という風に観ていくと、ストーリーが理解できたのであるが、別に理解しなくても、本作はすんなりと物語に没入できる。

だから本稿はまったくもって野暮なのであるが、さらに、この物語構造が『ビルドゥングスロマン(成長物語)とラブロマンスの交差』だと、本作パンフレットでフランス文学者の中条省平・学習院大学教授が丁寧に説明しているので、だからやっぱり本稿はまったくもって野暮なのである。

が、これだけは指摘しておかなければならない(と、何の知識もないから怖い物もない私が言う)。

本作、上述したように、のだめ-千秋先輩-峰、という一本の軸にあるのは「音を楽しむと書く"音楽"なのに、楽しいだけでは音楽は極められないのか」という命題ではなかったか。
とはいえ、それには現実的にも、結局のところ普遍の解はないのだから、本作で解決させる必要はないし、それが不可能だということも承知している。

しかし、「普遍の解」はないにしても、「物語上の解」は提示できるはずで、それを結局、のだめが音楽の世界に戻って来た、ということで誤魔化した(動機が自発的ではなく、他人がお膳立てした場所に行くきっかけを千秋先輩が与えた、という風に見える)。
で、その命題をなかったことにした結果として本作に残ったのは、「愛する人の願いを成就するために、自分の才能を犠牲にした」という、古き良きヒロイン像(厳密には違うかもしれないが、パッと思いついたところだと、たとえば「人魚姫」とか)である。まぁ、それも、先述した「のだめが音楽の世界に戻って来た」ということで、誤魔化されている感はあるが……

いや、或いは、「誤魔化した」のではなく、物語の結末として「観客が観たい"のだめと千秋先輩の恋の行方"に落とし込んだ」という方が正しいのかもしれない。
つまり本作は、「少し欠けている(不完全)が故に一途で純粋な(だから"愛おしい")ヒロインの魅力に気づいた王子様が、"そのままの君が好きだ"と丸ごとヒロインを受け入れる」という、昭和40年代の王道少女マンガ的ハッピーエンドの物語として完結した、ということだ。
留意しなければいけないのは、千秋先輩は"のだめ"が対等になったから認めたわけではないことで、結末は「そのままの君が好き」という少女マンガの王道であることだ(ただし、21世紀の恋愛物語としてヒロインの「才能」を匂わせている。強調するが、エンディングは「可能性」を匂わせただけで、のだめは最後まで「不完全」であり、だからこそ千秋先輩はのだめを受け入れるのである)。

断っておくが、これは批判ではない。
何故なら上述したとおり、観客が観たいのは「のだめと千秋先輩の恋の行方」であり、それこそが『のだめカンタービレ』のメインストーリーなのだ。

だから、予備知識を持たない、しかも50歳を超えたオヤジの観方は野暮なのである。
ということで、冒頭に書いたとおり、そういった事情なので勘弁してほしい。

メモ

ミュージカル『のだめカンタービレ』
2023年10月25日 ソワレ。@シアタークリエ


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