史実に基づいた"IF"の物語の先~音楽劇『瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々』~

♪兎追いし彼の山
恐らく、日本で生まれ育った人ならこの続きが歌えるのではないか。
1914(大正3)年に尋常小学唱歌(音楽の授業で歌う曲)として発表された「故郷ふるさと」、実は1960年代まで作詞・作曲者が明かされていなかったのだという。
現在では高野辰之作詞・岡野貞一作曲として教科書に載っている。

上記の出典はWikipediaだが、岡野貞一(1878-1941)と同世代で同時期に東京音楽学校(現・東京芸術大学)に在籍していた日本を代表する作曲家・滝廉太郎(1879-1903)についてWikipediaで調べると、以下の記述がある。

一部の資料などでは廉太郎の作曲数については多かったとされているが、2022年現在においてその存在が確認されているものは34曲と決して多くない(編曲作品もいくらか現存する)

音楽劇『瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々』(登米裕一脚本、藤倉 梓演出。以下、本作)は、「故郷」の作者が長らく隠されていたこと、現存する滝廉太郎の曲が少ないこと、この史実が示す2つの謎を「もしIF……」で結び合わせた物語だ(ちなみに、Wikipediaの両記述をざっと眺めたところ(だから見落としがあるかもしれないと予め断っておく)、二人に接点があったとするような記述は見受けられなかった)。

本作の主人公は『瀧廉太郎の友人』岡野貞一(大久保祥太郎)で、あるめいを受けた文部省の役人・野口貞夫(小出恵介)の通訳として、文部省外国留学生としてドイツに滞在していた瀧廉太郎(新 正俊)のもとを訪ねる、というストーリーだ。

岡野と瀧が「親友だったら」という"IF"の物語を成立させるために、本作は、岡野と同い年で同時期に東京音楽学校で学び、瀧より少し早くドイツに留学していたヴァイオリニスト(であり、幸田露伴の妹である)幸田幸(音くり寿)を媒介役(『知人』)として配置する。
幸の目から見て「二人は親友だ」とすることで説得力を与える構造になっているが、それを幸自身ではなく彼女が日本から帯同させた女中のフク(梅田彩佳)に語らせることで、物語が"IF"であると示唆する。

物語全体の語り部でもあるフクはつまり、物語が"IF"から浮遊しないためのアンカー役であるが、本作はタイトルも含め徹底的に「これは"IF"ですよ」とメッセージしている。
だから、本作は全体的にウィットの効いたライトコメディーなのであり、物語に関係がなさそうな(どころか、観客から見れば邪魔にも思える)基吉(塩田康平)を登場させ、実在した人物たち(フクと基吉は元夫婦という設定だが、名字が当てられていないことに留意)に、ツッコミを入れ続けさせる。

この、「史実に基づいた"IF"」に徹底的にこだわった物語が目指した先は、
恐らく「開放」なのではないか。
観客は、劇中で幸田幸=音くり寿が歌う「花(♪春のうららの隅田川~)」などの唱歌に驚いたのではないだろうか。それは、音くり寿の歌唱の巧さもあるが、別の意味で「こんな歌だっただろうか?」ということで。

圧巻は、この、瀧との友情を持ち続けた岡野の物語を経た後のカーテンコールで歌われる「故郷」である。
『夢は今も巡りて』『恙無つつがなしや友がき』『志を果たして/
いつの日にかかえらん』
この歌詞に、今までに見たことが無い景色が浮かぶはずだ。

唱歌はその由来ゆえ、我々は「この歌は、こういう歌である」と教えられてきたのではないか。そして、そのとおりに受け取ってしまっている。
史実もまた「この歌は、こういう歌である」的に教えられてきたのではないか。
しかし本作が示すように、「史実であっても、それらを"IF"で結びつければ別の景色が見えてくる」のである。

歌の解釈は自由だ。
今こそ「教えられてきた」ことから「開放」されよう。
物語は、その実践であり、実証であった。

メモ

音楽劇『瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々』
2024年5月2日。@下北沢タウンホール

これは書いておかねばならない。
舞台上手端で​ピアノを生で弾く西 寿菜さんの演奏は素晴らしかった。

これは書いておきたい。
カーテンコールの「故郷」の2番。
音くり寿さんとハモる梅田彩佳さんに鳥肌が立った。
幕開け早々に彼女は歌わないと示唆されて内心がっかりしたのだが、カーテンコールを観て、やっぱり1曲でも歌って欲しかった、と残念に思った。

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