舞台『もうがまんできない』
舞台『もうがまんできない』(宮藤官九郎作・演出・出演。以下、本作)とはタイムリーなタイトルのように思えるが、実は3年前、最初の緊急事態宣言が発出される直前に初日を迎えるはずだった芝居だ。
上演できない事情が事情だけに、がまんにがまんを重ねてきたが、それも限界。
遂に「もうがまんできない」と、一部キャストを入れ替えてのリベンジ上演となった。
この三年間、苦しかっただろう。
何故なら、全員が揃いも揃って、劇中の典子(中井千聖)と同じように、「ダメだと言われれば言われるほど、がまんができなくなる」人たちばかりなのだから(彼らは何度、「グェッ」と言いながら我慢したきたのか、察して余りある)。
我々観客だって、彼らほどでないにしろ、「もうがまんできない」状態にまで達していたのだ。だから劇場は、(マスクのおかげで)ずーっと観客の大爆笑で包まれていたのだ(演者らが「がまんできない」のも、観客たちが爆笑するのも、劇中にあるとおり「知的障害や心の病ではなく、神経伝達の異常」なのである)。
本作、とにかく面白い。だから、ストーリーなどはここでは書かない。
ネタバレとかそういうことではなく、私の文章力では面白さが伝わらないどころか、「で、これのどこが面白いの?」と逆に評価を下げてしまうことが明らかだからだ。
それに、劇場で観た人だけがその場で爆笑し、終わってからも事あるごとに思い出して吹き出す特権を得ることができる、それが演劇だからだ。
それに、こんな猥雑な芝居は、生で、その場に集った観客とともに「イケナイものを観ている」というワクワクを共有する方が絶対に楽しい、というか、そもそもそれを前提に本作は作られているはずだ(とはいえ、3年前の「テレビ放送版」として収録された「幻の初演」でも、しっかり「コンビニで売っているドリアの蓋にある暴発防止の『チ〇コみたいな形の穴』」という平岩紙さんのセリフが”ピー"音なしでしっかり放送されてはいたが。まぁ、それはWOWOWだからだろう)。
舞台は下手側にお笑いの劇場とサウナが入ったビルの屋上。その後ろにラブホテルの部屋の窓。
上手側はタワーマンションのベランダ。
それらは高さ20メートル以上の「ビルの谷間」で隔たれている、という設定。
上手側では、性別も間柄も見境なく奔放に(肉体的)恋愛を楽しむ西権造(阿部サダヲ)が、下手側ではストイック過ぎるほどにお笑いを追求する沢井理(仲野太賀)が、共に、その奔放さ/ストイックさによって、のっぴきならない状況に追い込まれている。
追い込まれているのは、上手側は現在の恋人(のうちの一人)である羽生秀太郎(宮崎吐夢)の無垢(?)な嫉妬心、下手側は沢井の相方である隅田太陽(永山絢斗)の"(イケメンなのに)天然で無垢なバカ"が原因となっており、さらには、上手側にちづ子(平岩紙)、下手側にみちる(荒川良々)という「面倒な人物」が配置されることにより、上手と下手が相似形となっている。
この上手と下手は物語中盤で物理的に架橋されることになり、それに加え、下手側の神田崎ふみお(皆川猿時)と典子の「デリヘル親子」と、その奥のラブホテルにいる典子を指名する客・シャーク(少路勇介)の関係が奥行きを出し、物語は立体的な広がりを持つことになる(ちなみに、作・演出でもある宮藤官九郎はちづ子の夫として登場するが、上手と下手を俯瞰するような存在となっている)。
こういった計算された構造の中で展開されるのは、しかし、上記でも少し触れたように、不倫・デリヘル・下ネタ・放送禁止用語+(放送禁止的)皆川猿時の裸というゲスのオンパレード。
だが、単なる悪ノリ的なガキっぽい下品に落ちない。
これはきっと、本作のターゲット層が40歳以上だからではないかと思われる。
それは、出てくる笑いが、たとえば「風雲!たけし城」(1986-89年)だったりすることからもうかがえる(さらに、典子が父・神田崎に「バカとヤリマン、どっちが偉い?」と聞くやりとりが「バカとヤリマン、どっちがオムライス?」となり、それがエスカレートして遂には「(テレビ朝日の)玉川さんとオムライス、どっちがヤリマン?」に至ってしまうという、この「〇〇と✕✕、どっちが△△?」のやりとりは、個人的には、1990年代前半にフジテレビで放送されていた「ウゴウゴルーガ」の「シュールくん」を想起する)。
とまぁ、そんなこんなで、本作は決して上質とは言えないが「大人の芝居」である。
だが、3年間も劇場で笑いや声出しを禁止されれば、いくら大人だからって、それは「もうがまんできない」のであって、だから本作は「もうがまんできない」大人たちが、下品ではないが決して上品ではない下ネタで、我慢せずに大いに笑っていい芝居なのである。
メモ
ウーマンリブ vol.15 舞台『もうがまんできない』
2023年4月15日 ソワレ。@本多劇場
途中から何を書いているのかさっぱりわからなくなったのだが、「『もうがまんできない』衝動に突き動かされた」と開き直ってここまで書いた。
本作を大真面目に解説できたらそれはそれで別の面白さが生まれるのだろうが、私にそんな能力はない。
それにしても仲野太賀という俳優は、ストイックな熱さが似合う。
しかも熱血の類ではなく、ストイックに内面に封じ込めているはずの熱さが、あまりにストイック過ぎるが故に、逆に外に滲み出してしまっていて、それが周囲とのコミュニケーションを阻害してしまう、というキャラが良く似合うのだ。
それは本人自身とどれだけ合致しているのかはわからないが、とにかく彼(が演じる人物)を見ていると「生きにくいだろうなぁ」と思ってしまうのである。
本作序盤で彼がギターを弾くシーンがあるのだが、私にとってそれは、映画『南瓜とマヨネーズ』(冨永昌敬監督、2017年)で、彼(当時は「太賀」)が演じた「せいいち」を想起させた。そういえば、「せいいち」も不器用で生きづらそうだった(だから、恋人の土田(臼田あさ美)に上手く気持ちを伝えられないのだし、本作でも同様に、相方の隅田と上手くコミュニケーションできないのだ)。
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