角田光代・堀江敏幸共著『私的読食録』に震え上がる

2021年。昨年以来、気軽に外食できない状況に置かれ続けている。
こういう時は、あまり考え過ぎない本、たとえば、食べ物…それもたくさんの食べ物が書かれたエッセイを読んで気を晴らすことにする。

そんなわけで、角田光代・堀江敏幸共著『私的読食録』(新潮文庫、2020年。以下、本書)を手に取る。

「dancyu」というグルメ雑誌で、二人が交互に「食」に纏わる本を選んで書いた、100回に渡る連載エッセイを収めた本である。
二人が選ぶ本や評論に各々の感性と個性が出ていて興味深い。

たとえば、角田がバーネット著『小公女』を採り上げた回。
物語に出てくる「甘パン」という食べものを知らないのに、『舌も鼻も目も胃袋も手も、記憶している』と言う。
角田は、『その甘く香ばしいにおい、ふっくらとしたやわらかさ、そして口じゅうに広がる甘さ』を『食べるのだ、本当に』。

とはいえ、それは想像の話。
本物の甘パンは見た目も味も食感も、なにもかも「記憶している」ものと、きっと違うだろう。
しかし、角田はこう言い切る。

きっと本物の甘パンを食べてさえ、私は「違う!これは甘パンではない!」と思うのだろうな。本に出てくる食べ物というのは、読むことでしか食べられないのだ。
(※太字、引用者。以下同)

そう! そして、それこそが読書の醍醐味なのだ。


本書に収録された二人の対談によると、採り上げる本は以下のようにして選んだとある。

角田 最初の頃はテーマは自由でしたけど、そのうち「次はカレーと韓国料理特集です」とか教えてくれて、それに合せて本を選ぶようになったんですよね。

堀江 それで、僕はお酒が飲めないのに日本酒とか居酒屋の特集ばかりに当たるんですよ(笑)。


「食」の話は楽しい。幸せだ。だが、「酒」となると別だ。

苦手な酒関連の特集ばかりにあたってしまう堀江が、国木田独歩の『酒中日記』を引く。

「五月三日(明治三十〇年)」にはじまる(主人公の)大河今藏の日記は、確かに酒の勢いを借りなければ吐き出せないだろうと思わせるほど苦く切ない。胆汁を搾り出したような内容で、もう初日から「酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかもしれない」と記しているほどだ。(略)日記のなかで、かれはその闇の元になった五年前の事件をほぼ時系列にたどり、現在につなぎあわせる。当時といまと、なにがちがっているか。酒である。「あの頃の自分は真面目なもので、酒は飲めても飲まぬように、謹厳正直、いやはや四角張った男であった」。そしてさらに言う。「嗚呼!何故あの時自分は酒を呑まなかったろう。今は舌打ちして飲む酒、呑ば酔い、酔えば楽しいこの酒を何故飲なかったろう」。

今蔵の心象は、「酒は趣味なり、嗜好にあらず」と言い切った酒好きの独歩自身と重なるだろう。
独歩は以前の拙稿でも引用したが、東京にあった「加六」という居酒屋がお気に入りで、死を目前にした病床にあってなお「加六」に執着し、こんな文章を書き遺している。

酒は加六の酒にあらざれば飲まず、加六とは読売新聞社筋向ふ写真屋裏の正宗ホールなり。(略)
あゝ、早く癒つて、鯖鮨を肴に加六の酒を引ツ掛けたし

加藤政洋著「酒場の京都学」(ミネルヴァ書房、2020年)


酒飲みといえば、こちらも以前の拙稿に書いたが、角田も負けていない。

角田は、中島らも著『今夜、すべてのバーで』(講談社文庫)を採り上げた回で、この本を読んだ24歳のときには既に『酒を飲むのは好きだった』と明かしている。
しかし、この本の主人公であるアル中の小島いたるについては、『理解することもできなかった』。

飲み方が違う。酒への頼り方が違う。まったく違うのに、容の入院する病棟や、アルコール依存症についての記述、そして容の見る夢の薄気味悪い手触り、すべての描写に説得力がありすぎて、わかってしまう。わかってしまうことが、こわくてたまらない。震え上がりながら、一気に読んだ

そして、最初に読んだ年齢と同じくらい年を重ねて、改めて読む。

震え上がった自分を、ほほえましく思えるかといったら、大間違いである。なんということか、小島容のことが、実によく理解できてしまう。(略)ああ、一言一言がびしびしと突き刺さってくる

『今夜~』は著者の中島自身がモデルだと言われている。
実際、彼はアルコール依存症だったし、亡くなった原因も結局はアルコールだった(直接の死因ではなく、居酒屋の階段から転落し脳挫傷となり、そのまま意識が回復せず、事前の本人の希望により、人工呼吸器を外した。Wikipediaより)。

角田と同類の酒飲みである私は、「そのうち読もう」と言い訳をして『今夜~』を遠ざけていた理由を角田に言い当てられた気がして、震え上がった。

もちろん本書は最後まで楽しく読んだ。
だが、『今夜~』は角田の描写に説得力がありすぎて、読む時期がまた遠くなった。


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