私は差別などしてない

 ぼくは、タイトルの文章を堂々と言える人ではないと思う。差別を感ずる被害者のみがそれが差別かどうか、判断できるものであり、時によっては被害者も差別であることを意識できなくなっていることもある。
 ぼくは、長い間「差別」というものについて考えてきた気がする。それは大した考えではなかったが、ぼくの人生の中では重要なポイントだった。その思考の中の一つについて書いてみたい。

 アメリカで行われるAA(Affirmative Action:以下、AAと記す)は、いろんな訳し方があると思われるが、Eleministによると(信頼性の高いウェブであるかはわからないが、訳語の意味についてはさほど問題がなさそうだったので、用いる)、日本語では「積極的格差是正措置」あるいは、「肯定的措置」と訳される。
 その意味については、スタンフォード大学の「哲学百科事典」(Stanford Encyclopedia of Philosophy)にはこのように掲載されている。


 “Affirmative action” means positive steps taken to increase the representation of women and minorities in areas of employment, education, and culture from which they have been historically excluded.


 「女性やマイノリティーが歴史的に除外されてきた雇用、教育、そして文化の分野において、彼らの代表を増やすための肯定的なステップ」とでも訳せるだろう。
 例を用いて簡単に説明すると、大学の新入生の2割を黒人に当てる、あるいは国会議員の3割を女性に当てる、と言った形の行為(Action)となるだろう。

 ここからが本題である。このAAに必ずつきまとう議論は、「逆差別」と言ったものである。その曰くは、だいたいこのようなもののように思われる。
「彼らが、歴史的に虐げられたことは認める。しかし、なぜ我々の機会が彼らに奪われなければならないんだ」
 とんでもない一般化がされてしまっているかもしれないが、それはさておき、この主張について少し考えてみたい。
 歴史的に虐げられてきたことは認める、ということは、大きく二つに分けて考えることができるだろう。まずは、本当に歴史的な因果関係などに関する議論などを熟知しており、その状況を全体的にかつ的確に把握できている、ということ。そしてもう一つは、歴史の教科書などで触れたので、彼らの祖先がひどい目にあったことは軽く知っている(例えばユダヤ人虐殺や、黒人奴隷など)といったことだろう。
 前者と後者がどう違うか、という点については、歴史を流れとして受け取るが、断絶として受け取るか、と言った違いに繋がるというい点なのかもしれない。
 アメリカから始まったBlack Lives Matter運動は、もはやアメリカだけの運動でもなく、黒人だけの運動でもあらず、世界的なレベルで行われている。黒人が、「黒人の命も大事である」と言った陳腐とさえ思われるフレーズを用いる必要がなぜあったのだろうか。ジョージ・フロイドさんが殺されたことに憤慨を感じなくとも、ほんと一握りの疑問すら抱かないものはいないだろう。凶器を持っているわけでもなく、すでに制圧されているものが息が苦しいと訴えているところを、マフィアでもない、警察が膝で首筋を押し付け、死に至らせた。1980年代の軍事政権(独裁政権)下で無残に殺された民主化運動を行なっていた韓国の大学生を思い出す。
 彼らの命は、いまだに大事にされていないのだ。それが彼らが時には怒りに満ちた、時には悲しみに満ちた運動をせざるを得ない理由とも言えよう。論理的飛躍かもしれないが、「常識」として考えてみよう。命が守られていない人々に教育や文化、雇用の分野で平等な地位が認められているだろうか。そうは思えない。すでに経済的に、社会的に、ステレオタイプ的に、出発線が大きくずれている。それを積極的に是正しようとするのが、AAなのである。

 さて、AAは逆差別だろうか、いやそうとは思われない。出発線が大きく異なることは、過去の産物として、その過去に簡単に責任転嫁できるものではない。我々マジョリティー(大抵の人は幾らかのマジョリティー性を帯びているように思われる)が享受しているすべてのもの、経済的背景や肌の色、言語、個人あるいは属する国の国際的地位など、すべてのものにおいて、我々は堂々に胸を張ることができるだろうか。帝国主義や植民地主義が終わり、平和の時代を唱える日本がODAなどを通して、新植民地主義を依然と行なっている今において。プランテーション農業、モノプランテーション、中東の石油、戦争と言ったすべての面の原因には帝国主義、植民地主義の時代に積み上げた国々の後ろめたい資金や地位、言説が残っているのである。

 このような現実が隠されてしまっている理由について、岩崎稔先生は以下のように語る。少し長いが、ぼくが再読したいのでそのまま引用する。

 ”たしかに近代以後の差別は、平等という観念によってまず否定される。しかし、平等の観念があるからこそ、ある時点での非対称的関係はもはや身分などによって一義的に決定されたり説明されたりするのではなく、個人ないしはその個人に体現されている何かある固有な属性として説明されなくてはならなくなる。平等の観念が登場するとき、その時点に厳然と存在する差異は、もはや身分制度的秩序の責任に帰されるのではなく、当の個人の責任として再属性化されて語られるのだ。たとえば、一八七一年に明治政府が出した「賎民解放令」は、被差別民を国民の一員として扱うと宣言したものだったが、当のひとびとの置かれた困難な経済条件を変えようとするものではなかった。むしろそれは、これまでの生業や一種の特権を奪って放り出すことを意味し、そうした困窮の責任を個人に帰すというあり方で作用し、被差別部落民を作り出したのである。そこに貧困や困窮を巡って差異の感覚や感情が存在し、またそれらが新たに生まれるが、その情動を取りまとめ、定着させる言説の係留点が、再属性化された「部落民であること」という規定である。そのような差別を算出したのは文明社会の側である。見出された差異は、本質的にその当のひとびとの固有性を表すものとしてあらためて位置付け直される。”(岩崎稔「差別と差異のヒストリオグラフィ」『20世紀の定義8 <マイナー>の声』岩波書店、2002年、50頁)

 被差別部落民ではなく、我々の目の前のものに定義しなおしてみよう。新自由主義、という言葉はすでに耳慣れた言葉であろう。
 若森章孝氏は、新自由主義についてたくさんの研究を重ねてきた、ディヴィット・ハーヴェイの理論を踏まえながら時代と政権によって異なる新自由主義を検討している。しかし、それらの多岐にわたる新自由主義のコアには、「強い国家」というものがあるとのべる。この点は、多くの学者に共有されている認識だと思われる。少し引用しよう
 「新自由主義を19世紀的な自由主義への復帰として理解し、新自由主義国家の役割を「大きな政府から小さな政府への転換」として位置付ける見方は、新自由主義の本質を見誤っている。本稿で繰り返し強調するように、競争的市場秩序は自然的あるいは自制的に形成されるものではなく、「強い国家」の介入主義、とくに法的制度的な介入によって創出されねばならない、というのが新自由主義のコアにある主張である」
 (若森章孝「新自由主義と国家介入の再定義─リップマン・シンポジウムとモンペルラン会議─」『経済研究』第27巻2・3号、千葉大学、2012年12月、91頁)

 強い国家によって保たれる新自由主義は、自由主義という姿勢をとる。市場原理を思い浮かべれば簡単わかりやすいが、その下では、多くの社会的、経済的背景などによる事柄も個々人の責任として転嫁される。
 ビール・ゲーツ(Bill Gates)の名を知らない人はあまりいないだろう。それはなぜだろうか。彼の名が使われる場面は、世界一のお金持ちとして憧憬の対象として用いられることもあるだろうが、もう一つは、「我々も努力すれば、彼のように”成功”することができる」と言った場面であろう。
 逆に言えば、もし我々が”成功”できなかったとしたら、それは努力していない我々に責任がある、とされるとのことである。
 その自由主義の出発線は、先ほど述べたように、人によって大きく異なる。ゴールの一歩手前で始まるものもいれば、出発線のさらに後ろの方から始まるものもいる。その中で、全ての人間に対する「自由」を与える、ということが何を意味するかは言うまでもない。

 今までのマジョリティーが犯してきた過誤を全て無視し、勝手に改まり治って、「さあ、皆自由と平等に始めようじゃないか」と言っていることに等しい。第二次世界大戦後、ユダヤ人虐殺を行なった第三帝国(ナチス)に投票したもの、あるいは、彼らの悪行に幾らか加担していたものが、Hour Zero、を唱えながら過去を断とうとしたことを思い出す。それは結局、その子供世代により68闘争を起こらせた。
 過去の過ちを認識し、始まりにおける差を縮めようとしているのが、まさにAAなのである。これに対する「逆差別だ」ということは、マジョリティーとしての特権を守り抜こうとする、特権意識に他ならない。

 だが、この特権を守り抜こうとするエゴイズムがこれほど多くの人に唱えられることは(私見であるが、多くの人が同意するだろう。例えば、韓国のフェミニズム運動に対する男性からの「逆差別」の主張があげられる)、なぜだろうか。
 それが、先ほど岩崎先生の引用句から推測できる。その一部だけもう一度引用する。
 ”平等の観念が登場するとき、その時点に厳然と存在する差異は、もはや身分制度的秩序の責任に帰されるのではなく、当の個人の責任として再属性化されて語られる”
 歴史的な場面における差別によって見出された「違い」、あるいはその違いに対する「言説」、それらが、あたかも本質的に存在するように扱われてしまっているがゆえであろう。
 「黒人は怠け者だ」というとき、植民地主義により「文明:野蛮」という二項対立的な、明らかに間違った言説が生み出され、肌いるの黒い人々が「野蛮」な人々として位置づけされたこの言説は、明らかに真実ではない。しかし真実のように受け止められる。
 「成功できないものは、努力が足りないのだ」ということで、社会的、経済的背景からくる著しい格差は、その当人の「性格」として再属性かされるのだ。

 「逆差別」というものが存在するかどうかは、わからない。しかし、逆差別を唱える前に、なぜ「差別」があるのか、をまず考察する必要がある。それすらしたくないものは、差別について、逆差別について語る資格を持たないのではないだろうか。


 参考資料(本文中に直接引用した資料は、省く)

・Eleminist「アファーマティブアクションとは? 言葉の意味や取り組み事例を解説」2020年10月1日、2021年2月28日閲覧
 https://eleminist.com/article/497

・Stanford Encyclopedia of Philosophy 「Affirmative Action」First published Fri Dec 28, 2001; substantive revision Mon Apr 9, 2018、Access date : February 28th, 2021 
 https://plato.stanford.edu/entries/affirmative-action/


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