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意味もなく悲しいので、小石蹴り行く

ここのところ東京は風が強い。
気候と身体がものすごいシンクロを見せている。雨は好きだけど雨が降ると身体が動かなくなるので、できればそんなに来ないで欲しい。だけど雨が降らないと心が憂鬱になってしまう。わがままボディってこういうこと。

太陽が煌々と輝くようになって、花も葉も人も外に出てきた。反比例するように私は悲しくなる。特に意味なんてない。ほら、全く知らない家庭のゴミ捨て場でゴミとカラスがダンスパーティしてる風景を見ることがあるでしょう。それを見て、自分の家ではないから損をしたわけでもないのに、なんだかじわっと悲しくなるような。

私の悲しみなんて、所詮その程度の悲しみ。

でも確かに悲しいのだ。
悲しみにも複数の種類があって、重く肩にのしかかるタイプのものもあれば、治らない赤切れのようにじわじわダメージを与えるものもある。
ここのところ感じているのは、そういうじわじわ来る悲しみだ。
行き場がないどころか、外からやってくるのか、中にあるのかもわからないので消化する方法すらわからない。楽しいことがあっても、悲しくなるし、誰かと会っても悲しいままだったりする。

こんな晴れた日に悲しくなるなんて。
その事実がまた別種の悲しみを引き連れてくる

生きているかぎり感情に終わりはない。
感情は映画館みたい。
こころのスクリーンに次々と投影されるさまざまな感情を、”私”が、席に座って眺めている。悲しみを見て、涙を流すこともあれば、喜びを見て涙を流すこともある。連続して投影されるその感情の波を、サーファーみたいに乗りこなしていく人も中にはいるのだろう。

でも”私”はそういうタイプの個体ではない。

じっとスクリーンを見つめて、隅から隅まで感情を眺める。
浮かんでくる感情が良いものでも、扱いづらい厄介者であろうとも。
じーーーーっと観察して、言語化して、自分のものにする。

こういう作業を若い20代のうちに一通り終えておきたい。
悲しみも苦しみも寂しさも惨めさも恨みも妬みもすべて味わい尽くして30代に到達したい。


最近、外で考えることにハマっている。
部屋の中にいるとどうも悪い方向にばかり考えてしまう。
日本語を使う自分にも飽きてきた


一つだけ胸を張って言えることがある。
悲しみも虚無もすべてまとめて生きることであり、
私にとってはそのすべて楽しい。


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BOOKOFFで110円の文庫本を買います。残りは、他のクリエイターさんを支えたいです