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【短編】「おはようございます」を言うまでに考えていること

私は道路を歩いている。

ひたすらに道路を歩いている。

目的はない。

何かに突き動かされる使命感もない。

私は、純粋な一つの個体としてただ歩んでいる。

心地よいリズムで、靴がカツカツと音を鳴らす。

自分の足をじっと見た。

カツ、カツ。

カツ、カツ。

「あぁ、歩いているなぁ」という実感を五感で味わう。

それが心地よい。

道路がカーブにさしかかった。

私はうつむいていた顔を上げる。

遠くの景色に、ゆっくりとピントが合う。

遠くに人の姿が見えた。

黒い背広を着た男性が、こちらに歩いてきている。

その瞬間。

私は肌がピリリとする感覚に襲われた。

心臓がバクンと大きく高鳴った。

瞬きを何度も繰り返し、再びその人を凝視した。

やはり人だ。

人間だ。

人間は厄介だ。

周囲の景色が吹き飛んで、真っ白になる。

人と会うのは面倒だ。

そう、なぜなら。

人と会うと「挨拶」をしなければならないのだ。

軽く頭を下げ、柔和な笑みを浮かべなければならないのだ。

「私は害意のない社会形成者の一人ですよ」とシグナルを発しなければならないのだ。

あれは人だ。

人だ。

私はグンと背筋を伸ばす。

口の中で「おはようございます」を反復する。

おはようございます。

おはようございます。

おはようございます。

おはようございます。

・・・・・・

・・・上出来だ。

私はゆっくり前を見た。

人の姿は先程よりも大きくなっていた。

距離はだいたい20メートル。

心拍が激しく鳴って、呼吸が荒れる。

指先が冷たい。

私に本当に「挨拶」ができるのだろうか。

頭の中でイメージするが、成功した情景を思い描けない。

距離にして15メートル。

肩が震えてくる。

心の自信が、しおれていく。

すると突然、頭にある言葉が聞こえてきた。

誰の声なのかは分からないが、ハッキリと聞こえた。

「猫の喧嘩は人間の発声に近いよ」

途端、顔に水をかけられたような気がした。

私はハッとし、大きく目を見開いた。

そうだ。

そうだった。

今まで折れかけていた心が、力強く脈動し始めた。

体温が上昇し、胸の奥が熱くなった。

私は、「生きるべき私」だったのだ。

「心を繋ぐ資格のある私」だったのだ。

私は、紛れもない「私」であったのだ。

私は根拠もなく溢れだす負の感情に、ニッコリと微笑みかけた。

私は自分の信念を伝えなければならない。

歩いてきた人が私のすぐそこをすれ違った。

目があった。

さあ、ショータイムだ。

食らいやがれ。


私は大きく息を吸った。





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