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ゼログラビティ

↑前回のつづき

己を棄ててまで尽くしに行ったらお呼びでないとぞんざいに扱われるのだ。
こんなに悲しいことってある?

自由なままでいられるといえば聞こえはいいが、なんの束縛もないということは宙ぶらりんであるということだ。人間の意識はその状態に長く耐えられるように出来ていないと思う。

要するに滅私奉公にはリスクがある。私欲から解き放たれても他人に必要とされる保証はない。公である以上はきっと他の参加者がいる。そして椅子の取り合いになる。

だったら自分の幸せを追い求めるのが安心かつ安全だろう。自分で自分を必要とするのである。自身の願望を満たすために自身の知能を活かすのだから宙ぶらりんになる心配もない。

私利私欲に生きるのは十分に合理的な判断といえる。
それでも葛藤は生まれる。

幸か不幸か僕はあまり欲深い人間ではない。安定した生活があればそれだけで幸福を感じる。そうなると逆に満たすべき願望の器が小さいことに思考は不満を感じる。役不足だと訴えている。

他を圧倒するほどの思考力であれば椅子取りゲームにも負けることなく滅私奉公を勤め上げるのだろう。しかし、他人より優れているわけではない。あくまで自分の願望に対してオーバースペックというだけだ。

↓次回につづく