ふる@500文字noter

提唱しないINFJ-Tのおっさん51歳。あんまり欲がないわりにそこそこ器用なのでお金が…

ふる@500文字noter

提唱しないINFJ-Tのおっさん51歳。あんまり欲がないわりにそこそこ器用なのでお金がなくても結構幸せに生きてます。週5で500字くらいがちょうどいい。

マガジン

  • 自由に生きたい

    不自由に関する雑記をまとめていきます。

  • それでも共存するために

    争いのない世界について不定期に妄想します。

  • ゲームの思い出

    日記の中からコンピュータゲームに関する話をピックアップしていきます。

  • 欺き欺かれて

    嘘に関する記事を不定期に追加していきます。嘘を善悪で語るのはナンセンスだと思うの。

  • 役に立たなくても

    役に立たないことがそんなに悪いことなのか。雑記から不定期に追加していきます。

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  • 固定された記事

対象読者

筆者が自分に向けて書いています。メッセージ性とかはなく、ほぼ全部の記事が自問自答の記録なので、筆者と同じ関心を持っているか、筆者自身に興味のある人でなければ楽しくないと思います。 ITエンジニア崩れの冴えないおっさんに特段の興味を持つ人などいないでしょうが、簡単に自己紹介をしておきます。たぶん、まあまあの変わり者です。 高卒で学がない上に読書も嫌い。もっとも影響を受けた著作物はテレビで観たドラえもん。「三月の雪」の回は筆者の誕生月なのもあって強く印象に残っています。知識よ

    • 褒めるだけでは足りない

      ↑前回の続き。「教育」を考える第六回。 勉強ができる子、運動が得意な子、心根が優しい子を褒めるのは特に難しくない。結果を客観的に評価できるからだ。よくやったね、偉いねと他人から褒められることは、本人の自信にもつながるだろう。 しかし、その自信は十分でない。結果を出せば褒められる。自分にはそれができると信じられることは心の支えになる。それはそれで大切なことだが、結果を出すだけが生きることのすべてではない。 人生は過程と結果の繰り返しであり、その大半を過程が占める。いつか結

      • 自分を信じる

        ↑前回の続き。「教育」を考える第五回。 諦めの良さとは、単に早く妥協することを良しとするわけではない。一般的にはそういう意味で使われがちだが、僕はなんでもかんでも諦めれば良いとは思っていない。 良い諦めと悪い諦めがあるということだ。たとえば自暴自棄や捨て鉢は悪いほうの諦めに該当する。このような諦めからは何も得られない。 欲しいものがすべて手に入るとは限らないからこそ、自分が本当に求めるものを問い続け、それ以外のものは涙を呑んで諦める。何かを得るために人は諦めるのだ。良い

        • あきらめ上手

          ↑前回の続き。「教育」を考える第四回。 爪と牙を持つ人が社会の中で共存を望んでいないとは限らない。人間はそれほど単純ではなく、他人の自由と競合する以前に、自身の中にも矛盾を抱えている。本当の自由なんて、最初から存在しないのかもしれない。 初めて何かを諦めたのは、いつのことだったろうか。 満腹で食後のケーキを食べられなかったこと? 遊び足りないまま日が暮れて、家に帰るしかなかったこと? いや、それよりもずっと昔に、人生で最初の諦めを経験しているはずだ。 何を諦めたのか。

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        • 自由に生きたい
          29本
        • それでも共存するために
          36本
        • ゲームの思い出
          13本
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          19本
        • 役に立たなくても
          15本
        • 恋心
          9本

        記事

          爪と牙

          ↑前回の続き。「教育」を考える第三回。 羊しかいない世界なら誰もが自由に生きられる。しかし、気の毒なことに虎や狼のような肉食の性質を持って生まれてくる人たちがいる。ここで言う肉食とは他者の犠牲が必要なことを指す。 人の大切なものを力付くで奪い去る以外にも、競争によって限られた椅子を取り合うような行為も広義の肉食と言えるだろう。欲しがる人が多いほど価値は高まり、勝利の美酒に酔うために敗者の存在が必要になる。 社会通念上、略取は悪であり、公正な競争はむしろ称賛されるが、今回

          羊の皮をかぶった何か

          ↑前回の続き。「教育」がテーマの第二回。 願わくば自由に育ってほしい。生まれ持った感性にのみ従い、これから始まる長い人生を伸び伸びと歩んでいってほしい。僕に子供はいないが、僕もかつては子供だった。だから親目線というよりは仲間意識のような目で見ている。 僕がわりと自由に生きられたのは親や環境のおかげもある。が、それ以上に生まれ持った感性が社会に対して親和的だったところが大きい。内向的な性格ゆえに、求める自由の先に社会と衝突する部分が少なかった。 中学校では前髪が眉毛にかか

          羊の皮をかぶった何か

          わからせる

          ↑これに関連して体罰についても考えてみた。 戸塚ヨットスクールの戸塚さんの主張がすべて正しいとは思わないが、体罰を一律に禁止することが社会のためになるとも思えない。 体罰が原因で直接的に人が死んだり、自殺者が出たりする。だから体罰は悪だと言いたい気持ちはわかる。体罰さえなければ、これを原因とする死者はいなくなるだろう。 ただ、少年犯罪でも人は死んでいる。加害者にもいろいろなタイプの子がいて、全員がそうだと決めつけるのは偏見でしかないが、彼らの中には体罰による教育を受けて

          ロジハラ男

          ↑前回の続き よく男性は論理的で、女性は感情的だと言われるが、これには大きな違和感を覚える。たしかに個人的な経験からも女性とはわかりあえない部分があるのは感じる。しかし、女性が論理的でないとは思わない。 そもそもの大前提として、人間は論理的な生き物だ。1+1は2だし、裏の裏は表である。そこに性別の違いが入り込む余地はない。 もし、両者の間に見解の相違があるなら、まずは誤解、誤認、嘘、判断ミス等が疑われる。論理的であっても常に正しいとは限らない。間違いは性別に関係なく誰に

          ヒステリー女

          たかまつななさんのニュースを見て、「違う、そうじゃない」と思った。 自身がヒステリー女と呼ばれたことに対して、女性差別だと切り返している。ここにジェンダー問題の難しさの一端を見る。 たしかに「ヒステリー女」という呼び方は女性差別を含んでいる。が、それは彼女がヒステリックでないことの証明にはならない。実際、テレビで何度か見た限りでは、いつもヒステリックに話している印象があった。 過去にはその点を自省したこともあったようだが、残念ながら改善には至らなかったらしい。逆に「毅然

          膝カックン

          新作アニメを観ていると、登場人物の一人が膝カックンをしていて、少し心がざわついた。膝カックンとは、立っている人の後ろから相手の膝裏に両膝を当てて、体勢を崩すという他愛もないイタズラだ。 僕も子供の頃にやったし、やられたりもした。大人になってからはさすがにない。たまたま、そういう人付き合いがなかっただけかもしれないが、どのみち、膝カックンをするような大人とは仲良くなれないと思う。 コミュニケーションの一環なのは理解している。怪我の心配をしているわけでもない。アニメや漫画にそ

          風の憧憬

          1995年に発売されたゲーム『クロノ・トリガー』で流れる曲。YouTubeで検索すると、芋づる式にいろいろなアレンジがおすすめされる。どれも甲乙つけがたいが、この方のピアノがひときわ心にしみた。 ゲーム自体が名作と呼ばれている。時間を旅する物語はもれなく僕の琴線に触れるので、確かに面白かった記憶がある。けれど詳細を覚えていない。 比較的鮮明に思い出せるラスボス戦は、数年前に見た、知らない誰かのプレイ動画の映像だ。そして、これほど感情を揺さぶる「風の憧憬」でさえ、どんなシー

          まっすぐな道

          ↑前回まで続いた「科学とオカルト」の最終回。 オカルトを信じる人よりも、否定する人のほうが理知的に見えていた時期があった。分別のある大人は、超能力や心霊現象を否定するものだと思っていた。いずれ自分もそうなるのだろうと想像しながら歳を重ねてきた。 はたして今に至る。信じてはいないが、完全に否定することもできない。結局のところ、これは悪魔の証明である。地球上のすべての自称超能力者が手品だと認めても、超能力が存在しないことの証明にはならないのだ。 むしろ悪魔はいないと言い切れ

          疑うほうが楽だから

          ↑引き続き、「科学とオカルト」の第7回。 霊なんて存在しない、霊能力者は困っている人からお金をだまし取るために嘘をついている、と突き放すのは容易い。もちろん、疑うことも大切ではある。しかし、拙速に嘘だと決めつけるのは楽な方に流されている。 納得の行かない状況に直面したとき、誰かが嘘をついていると仮定することで、説明がつくケースがある。帳簿の数字が合わないとか、旦那の出張が多すぎるとか、注文したピザが届かないとか。 わからないことをわからないままにしておくのは一種のストレ

          疑うほうが楽だから

          信じられること

          ↑前回に続き、「科学とオカルト」の第6回。 霊視の結果が事実と異なる場合、「霊能力者の言うことは真に受けるな」と注意喚起するのには十分だが、「こいつは嘘をついている」と糾弾するには不十分だ。 そのように視えたと本人が主張する限り、それが嘘なのか、見間違いなのか、あるいはその人自身が霊に騙されているのか、第三者には判断がつかない。 答えの出ない問いを続ける意味はなく、またその必要もない。まったく信じないか、騙されても構わない範囲で関わるのであれば、真偽はどうであれ、大きな

          信じられること

          見えるものだけがすべてじゃない

          ↑前回に続き、「科学とオカルト」の第5回。 僕自身は霊感がまったくないし、人間の死は人格の完全な消滅だと考えているので、お墓参りにすら懐疑的だ。しかし、これには何の根拠もない。知覚できないものを存在しないと断定するほど、自分の感覚を信用しているわけではない。 だから、誰かが「視える」と言っても特に驚かない。鵜呑みにはしないが、頭ごなしに否定もしない。例えば「壺を買えば守護霊が喜ぶ」と言われたら、試してみてもいい。二千円くらいまでなら、戯れに払う余裕がある。 とはいえ、ま

          見えるものだけがすべてじゃない

          溺れるものは藁をも掴む

          ↑前回に続き 、「科学とオカルト」の第4回。 もともと手品がそうであるように、スプーンを曲げたり、相手の選んだカードを当てたりするのは見世物として成立している。超能力を謳っておいて「実は偽物でした」となっても、「なんだ、そうだったのか」で済む。 霊能力は違う。霊能力者が必要とされる状況では必ず困っている人がいる。それもほかの手段では解決できない、厄介なトラブルを抱えている人が。 そんな人達を助けるという名目がある以上、ニセ霊能力者はニセ超能力者よりも悪質と言える。能力が

          溺れるものは藁をも掴む