だって大人だもん
↑前回のつづき
食後のデザートに買ってきたプリンがあるとする。すぐに食べたいが今は我慢する。だって大人だもん。ここで食べてしまうと食後に食べたい欲を満たせなくなる。そのくらいの分別はある。
そして食事を終えてのデザートタイム。お楽しみはこれからだというタイミングでやっぱり食べないという選択肢が僕にはある。食べちゃいけない理由はとくにない。それでも我慢しようと思えば我慢できる。だって以下略。
思考が願望を満たすための道具だとするとこの造反を説明できない。ハサミがハサミの気まぐれで切れたり切れなかったりするならそれはもう壊れているのだ。道具としての価値はない。
そもそも願望が矛盾している可能性はある。プリン食べたい欲とプリン食べたくない欲が同時に存在しているケースである。しかし、だとすれば決定権は思考が持つことになる。道具が自らの意志で判断しなくてはならない。
どちらにしても僕には自由がある。願望に従わない自由。願望がはっきりしないときには選択の自由。道具でありながら受動的にただ使われるだけの存在ではない。
ここが人工知能と人工じゃない知能の一番大きな違いなのだと思う。彼らはゴールを与えられないと走れないが、僕はゴールがなくても走れる。あっても立ち止まったり別の方向に走れる。
↓次回につづく