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生きる自由(2)

↑前回のつづき

本題はもちろんお願いする自由ではなく、死ぬ自由のほうだ。本人が死にたいと言うならそれを止める権利は誰にもない。生きて欲しいとお願いするのは勝手だが、それを拒否する自由が本人にはある。

極論を承知で言うと不治の病である必要もないと思っている。命の重さは平等ではない。他人の命を値踏みすること自体が土台無理な話であって、人はただ自分の命がどれだけ重いのかを自分の秤で量ることしかできない。

少し前のニュースで同級生に無視されて自殺した子がいると知った。「そんなことで」と思ってしまった。さらに「無視される以外にもひどいいじめを受けていたのだろう」とも考えてしまった。

どちらも間違っている。死ぬほど辛い他人の経験を想像するとき、僕は無自覚に自分の命の重さを基準にしている。天秤の一方に命の重さを乗せて、それに見合う苦痛を想定しようとする。

自分と他人の命の重さが本当に等しいならそれでいい。天秤が釣り合っていないのに死を選択したのは本人の判断能力が未熟であったからだと決めつけてしまえる。大切な命を粗末にするなと知ったふうな口を叩ける。

それがたまたま的を射る場合もあるだろうが、実際のところは本人にしかわからない。天秤はどちらに傾いていたのだろうか。

つづく↓