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菊 ~古典文学に見る季語の源流 第十回~

秋の植物に「」がある。ルース・ベネディクトが『菊と刀』を著したように、日本人と馴染み深い植物で、天皇家でも十六葉八重表菊の「菊の御紋」が用いられている。

しかし、日本人との関わりは、梅や桜よりも短い。菊の御紋も、後鳥羽上皇が個人的に愛好していたのを、後深草・亀山の両天皇が正統性の証として用いたのが始まりだ。長い皇室の歴史のうち、七、八百年のことなのである(それでも長いが)。

「きく」は音読みである。訓読みがないのは、いかにも外来の植物らしい。伝来は平安時代初期とされることが多いが、それは、奈良時代末期の歌集『万葉集』に、菊が一度も登場しないためである。

ただ、実は、七五一年頃に編まれた漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』には幾度か登場している。例えば、境部王(さかいべおう)(天武天皇孫、~七二一頃)の漢詩「五言、秋夜山池に宴す」には、

峰に対(むか)ひて菊酒を傾け
水に臨みて桐琴(とうきん)を拍(う)つ

というフレーズが出てくる。この菊酒がどのようなものだったかは不明である。中国文学を読み、まだ見ぬ菊酒に憧れ、手近な野菊で真似事をしたのだろうか。

他には、新羅使の帰国に際しての宴において、長屋王(ながやのおう)が詠んだ漢詩に、

桂山余景下り 菊浦落霞鮮(あざ)らけし
(木犀香る山に夕日が映え、菊の咲く浦辺に低い霞が鮮やかに輝く)

とある。史書『続日本紀』と照らし合わせると、新羅使が平城京を去ったのは七二六年七月二三日であるそうだ。新暦に直すと八月下旬なので、実景とは考えにくい。漢詩的情景を完全な想像で詠んだのかもしれないが、別日の田中浄足(きよたり)「晩秋於長王宅宴」に「巌前に菊気芳し」とある。左大臣の長屋王の庭なら、舶来の最先端の植物も咲いていたのかもしれない。

九〇五年の勅撰和歌集『古今和歌集』に下ると、秋下の巻に菊も多く詠まれる。

「住の江の」で知られる藤原敏行の歌。

久方の雲の上にて見る菊は天(あま)つ星とぞ誤たれける

宇多天皇の御代、低い身分ながらに昇殿を許された。その感激を詠んだ歌で、「雲の上のような清涼殿で見る菊は、空の星かと思わず見間違えた」と、輝くような菊花の美しさを星に喩えている。

その約百年後の『源氏物語』には、菊が二十回も登場する。著者の紫式部は、九月九日の重陽(ちょうよう)の日記に、こんな件を記す。

菊の綿を兵部のおもとの持て来て「これ殿の上(=道長の妻、倫子)の。『取り分きて、いと良う老い拭ひ捨て給へ』と、宣(のたま)はせつる」とあれば、
  菊の露若ゆばかりに袖濡れて花のあるじに千代は譲らん

菊の着綿(きせわた)の風習を記したものである。蚕から作った真綿を一晩、菊の花に被せておいて、露と菊香をしみこませる。それで肌を潤し、若さや長寿を願った。

ところで、今日、仏花として欠かせない菊であるが、栽培が進んだのは江戸時代に入ってからである。そういえば、江戸の俳人・芭蕉には〈菊の香や奈良には古き仏たち〉の名句がある。明治時代以降、さらに品種改良が進み、近年では遺伝子工学技術によって青色の菊も生み出された。

菊の増やし方には、挿し芽と株分けがあるが、それぞれ、春の季語「菊の根分(ねわけ)」(菊根分菊分かつ)、夏の季語「菊挿す」(挿菊(さしぎく)、菊挿芽(きくさしめ))となっている。

一茶の四国旅中の句に〈根分けして菊に拙き木札かな〉の句がある。菊を育てる主の素朴な人柄が、木札の稚拙さから偲ばれる句だ。

*本コラムは結社誌『松の花』に連載しているものです(2021年10月号に掲載)。


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