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信華傳

覇者早稲田に学んだ核融合の神学 抄本

大学在学中、虹の架け橋となるべく、外交官の道を志して、二十代で渡米し、その後機会があるたびに、三十四ヵ国に渡る海外放蕩旅に出た。三十代でフランス語の恩師エリック・プリユ先生と出会い、厄年の四十代で東日本大震災の福島第一原子力発電所事故を経験するも、ギリシャ文明において、哲学者デモクリトスが名付けた、物質を構成する最小単位であるアトムという核が、悠久の時を経て、原爆開発に始まる核科学史が、冷戦による核兵器拡散の課題と共に、核の民生化に伴う、IAEA国際原子力機関によって核が支配、管理され、太陽という莫大なエネルギーである恒星の働きの再現に他ならない、ITER国際核融合開発の実現に収斂するという理解が働いて、災い転じて福と成した。五十代で「Youは何しに日本へ?」のTV東京の番組がブレイクしたクールジャパンの影響も受けて、日本伝燈文化に開眼した。それは、明治維新の時、財界人や文化人が、旧来の慣習を軽視し、西洋文化を受容するに至って、西洋に渡って西洋文明を学び、その影響を受け、以って逆に、母国の国家、宗教、文化のアイデンティティーの何たるかを自問し、帰国後、旧来秩序を守ってきた武家の嗜みであった日本伝燈文化が見直され、その復興に注力した。茶道では、表千家が三井、三菱、住友、野村、安田、三和といった財閥や、東急電鉄創業者の五島慶太、阪急電鉄創業者の小林一三らを中心に、有産階級の間で茶道文化が広まり、裏千家では跡見女子学園が中心に、女子の花嫁教育にプロモーションをかけ、戦後海外でもその普及に成功した。華道では池坊、嵯峨御流といった伝燈流派と共に、昭和に入ると、勅使河原氏の草月流、小原流、龍生流といった創作華道が世界的に開花した。言ってみれば、ジャポニズム・グローバル・ルネサンスが、現在、その日本古典文化の彩りを謳歌していると言えるだろう。こうした歴史的流れに沿って、池坊の須藤千恵先生の日本伝燈文化界の法門に、遅ればせながら弟子入りした。自分もまた、世界を理解する涵養として、むしろ、母国の文化の素養を身につけることこそ、真の日本外交の還元になるのだと悟り、還暦に向かいつつある。一輪ずつ花をいける歓びにこそ、宗教的意義さえ感じられる、その大和魂を見出すべく、令和四年より華道の道を志した。道という道の立志者として確信を得た私は、以て自己の通史を古今を問わず、洋の東西を問わず、その歴史を通じて自己の所在を明らかにすることで、三十年の歳月に渡る苦悩を吐露するべく、自伝の抄訳を記すこととした。

小林家の先祖代々は、東京都台東区元浅草の菩提寺として佇む、葛飾北斎翁を祀る、都心にしては閑静な、浄土宗瑞亀山弘願院誓教寺に眠る。全国的には小林姓の祖先は、長野県など神主系の祖先が多いとされる。亡き明治生まれの祖父忠太郎は、直系小林家の祖先は華族に仕えていた士族の出身だと、自叙伝に遺している。しかし実態は、激動の明治期に、ほぼ無産階級に近い出身ながら、尋常小学校を卒業するとすぐ大蔵省に入省し、丁稚奉公を経て、旧大藏省(現財務省)図書館の勤務を最後に退官した。祖父は、四谷や中野の官舎などを転々としていたが、昭和四十四年(一九六九年)頃、千葉県船橋市に居を構えた。実父中村と死別して、忠太郎が養父となった、亡き父も国家公務員試験合格を蹴って、日本生命保険相互会社に入社し、生命保険会社員として勤め上げながら、時代物など歴史書を愛読していた。父克巳と、未生流を嗜んでいた母サトエが、社内結婚して二男をもうけた。昭和四十四年(一九六九年)三月二十三日、兵庫県西宮市の代用社宅に住んでいた頃、小林家、馬場家(母方)両家初の嫡男として、ぼくは生命を授かった。その後、東京都練馬区石神井、山梨県甲府市、茨城県土浦市、茨城県稲敷郡阿見町、大阪府枚方市、千葉県松戸市と生命保険会社の営業拠点の異動に伴う転勤を重ね、父も昭和六十三年(一九八八年)千葉県船橋市に居を構えた。私も、また祖父や父に続いて、昭和と平成の日米の学生寮の珍事を経て、半官半民のアラビア石油で、日本興業銀行本店、三菱銀行本店、他都市銀行本店の出納業務を遂行しながら、原子力部門に立ち合うことで、試練にも統合失調症を罹患するも、福島第一原発事故の経験から、地球環境問題における原子力の立ち位置が、専ら科学技術にあるよりかは、我々が民主主義社会、資本主義社会において選択、決定を下すインセンティブ「誘因」に基づく環境エネルギー経済学の手にかかっていることが、令和に入ってからの三菱商事出資TMネットワークス社勤務で蘇ることで判明した。私も、後生を市井の小林家の三代目の歴史家として、拙著に叡智の宝石を散りばめることで、自分もまた亡き後、大学図書館に所蔵される拙著を通じて、主に知識階級として祀られるその家系を営んできた、我が小林家の末永い繁栄と興隆を祈願して、小林家の末裔、研究者や学生、現役高校生の思索と追憶と祈りの中に、永遠の命を宿し続けることで、その先祖から授かった尊い命と矍鑠(かくしゃく)たる通史のバトンリレーを試みることとした。 

大医とは 下医が病を治すごとく、中医が民を治すごとく、大医は国を治さなければいけない。二十一世紀に入り四半世紀が過ぎようとするこの未曾有の広く世界の局難、国難にどう対処するべきか案ずることは、少なくとも小医が病を治すが如く、中医が民を治すが如く、大隈重信が云わんとしていた在野の精神とは、早稲田大学出身の輩は、広く国際社会の、日本の難題に取り組む大医という大志を志さなければいけないこと(小品方 陳延之)を肝心に命ずるところである。

明治十五年(一八八二年)、現筑波大学の前身である東京教育大学、東京高等師範学校の同窓会として発足した茗渓会は、その後、日本の教育界の大本山として機能し、創立百周年事業に、昭和五十四年(一九七九年)、ジェントルマンを育成するべく、校技に当時としては斬新なイングランド発祥のラグビーを導入して、英国のボーディング・スクールを模倣した茗渓学園が開校。私は日本生命保険相互会社に勤務する父の度重なる転勤の都合上、過疎地に居住していたため、唯一の中学受験の受け皿となる第三期生として昭和五十六年(一九八一年)入学。私が典型的な中流階級から垣間見た、茗渓学園という言わば、揃いも揃ったブルジョワ階級が集結した実験教育の中で、また、古き良きアメリカの、休みになると親御さんがキャデラックで送迎に来る、ミッド・ウエストの富裕層のリベラル・アーツ・カレッジの双方で、貴重な経験を積んでいると言える。というのも、この拙著は、同級生の柴田君が見せてくれた原爆絵による思春期の不安定な心情の精神に、拍車をかけた狼狽と衝撃と、米国留学先で、シカゴ学派を輩出してきたシカゴ大学出身の教授の同じ講義で机を並べた、一学年先輩の慶應大学の加藤健一郎さんの、噂に聞いていた筆まめを見習おうとした、昭和と平成の日米の学生寮での珍事が発端になっているからである。このことが私にとって、後に述べる不条理な運命なのか、大躍進の人生なのかは、時の経過を経て判明することだろう。

いや自分は、大西忠治先生のもと、血気盛んな高校生の平和大使のように、学校で核兵器廃絶運動を展開したのが、全ての始まりだった。しかし、ジェームズ・ディーンの筆箱を持っていた同級生の少女に好意を寄せた自分は、失恋を経験した。エデンの園から追放され、在日大使館への英文文書流出を経て、原罪を背負うことになる。未曾有のチェルノブイリ原発事故と、あれから二十一世紀を迎え、福島第一原発事故を経ることになった。地球環境の効率利用が、大々的に唱えられるSDGsの時代に、つまりパラドックスだが、核を忌避するのではなく、聖書の創世記に書かれる神の手によって作り出された天地創造が、科学の手によって核を再現していることによって、その台本、著作権を得た人類は、核融合エネルギーの出現で、無尽蔵に電力を供給することが可能となった。人類は核の支配、管理という試金石を試される、核科学技術の新たなステージを踏む。人類の核の支配、管理こそ、国際平和の要に他ならない。ホモ・サピエンスから、ホモ・デウス神人類に進化する意味で、不条理ながらも大躍進だと理解が働くのだ。

大西忠治先生が国語の授業で朗読していた、レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンの姿は、イエス・キリストが降臨したかの如く、昭和の時代に抹消された自分が、令和の時代に復活を遂げようとしているかの如く、自分の姿とうりふたつで重なり合うのである。事実は小説より奇なりである。

帰国子女が集う革新的な寮生活校風生活の影響を受け、虹の架け橋となるべく、外交官としての職業に興味を示し、三井財閥系銀行員から、ジョージタウン大学大学院を経て、国際公務員として、ワシントンD・Cに本部を構える世界銀行に進み、外務省駐バーレーン日本国大使館書記官としても活躍した吉永慶太、欧米での滞在経験を活かし、帰国子女生として、UWCから京都大学、及び慶應大学法科大学院に進んだ高野厚らと親交を深め、私は早稲田大学国際部のアメリカ交換留学を経て、サウジアラビア王国政府、クウェート政府資本のアラビア石油勤務を経験する。当時としては珍しいパーソナル・コンピュータが学校に導入され、ベーシックという原始的なプログラミング言語を認知する。政治や異性との恋愛に傾倒するが、破綻して退学。

私は、ひとりの少女との唯一の失恋のために、毎晩のように、大海原の涙が滝のように涙が溢れ、その失恋が癒えるまでには、朱冬梅との運命的な逢瀬を待つより他なかった。しかしそこで芽生えたささやかな恋文の交換は、今日の著作物として脈々と続き電光石火の如く結実し、復活を遂げ、救済が行われた。それは、中一の国語の担任である大西忠治先生による国語力と、寮東四階ハウス・マスター中村恒三先生が見守ってくださった社会科力の賜物だろうか。あれから四十年、母校早稲田大学の大先輩、村上春樹がノーベル文学賞にノミネートされていることに人間万事塞翁が馬、村上が世界中から極めて広範な支持を集めているのとは対照的に、孤軍奮闘している自分もまた、この現世に生を授かった運命こそ、使命なのだと確信が生まれ、千恵先生とのご縁を結び、仏様が悟りを得た如く、自分もまた悟りを開いた。

翻って、昭和六十一年(一九八六年)、鄧小平が率いる、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想のもと、四つの近代化を唱える改革解放路線初頭期の、中国大陸を単身流浪、風光明媚な蘇州夜曲で知られる蘇州の朱冬梅と懇意になり、上海より豪放磊落に鑑真号で、神戸港に凱旋帰国。志士として明治維新のとき、外交、財政、経済に影響を及ぼし、通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制による国会開設要求などに手腕を振るい、参議大蔵卿、内閣総理大臣、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、貴族院議員、立憲改進党総理、報知新聞社主、聖路加国際病院設立評議会会長、同志社大学社友などなど歴任した明治期の大政治家として、中央政府の首脳など活躍した、幕末の動乱から日本を、明日を切り拓く近代国家の礎へと導いた、近代日本政治の父、大隈重信、早稲田大学の門を叩くことになった。

大隈重信は、弘化元年(一八四四年)肥前佐賀藩、弘道館佐賀藩校入学。後に前島密らと共に、米国聖公会のアメリカ人宣教師チャニング・ウイリアムズ(立教大学創設者)の私塾で英学を学ぶ。慶応三年(一八六七年)佐賀藩校英学塾「致遠館」の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキにやはり英学を学んだ大隈重信は、この頃、アメリカ独立宣言に大きく影響を受けた。当時、隠れ切支丹の弾圧である浦上四番崩れに、大隈は、イギリス公使パークスと交渉し、手腕を発揮、頭角を表す。この背景には、ウイリアムズとフルベッキから学んだ、英学と、キリスト教の知識の恩恵があった。

明治二年(一八六九年)参与に任じられた大隈は、旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と婚礼。美登との離婚は、明治四年(一八七一年)に成立している。会計官副知事を兼任し、高輪談判の処理、新貨条例の制定、版籍奉還に携わる。二官六省制度の設立後は、大蔵大輔となり、木戸孝允に重用され、この頃、幼名「八太郎」ではなく「重信」の名が用いられるようになる。やがて大蔵大輔・民部大輔共に兼任し、この頃、大隈邸には、伊藤博文、井上馨、前島密、渋沢栄一といった若手官僚が集い、寝起きするようになる。このため大隈邸は「築地梁山泊」と呼ばれるようになる。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正、殖産興業政策を推進、富岡製糸工場の設立、鉄道・電信の建設など尽力した。

大隈重信と福澤諭吉は犬猿の仲として知られているが、ある日、東京上野で、大隈が三十代、福沢が四十代の頃、引き合わせられる機会があった時、ふたりは瞬く間に意気投合。大隈は東京専門学校の実現にあたり、福澤から先輩格に当たる慶應義塾を引き合いに、多くの助言を得たとされる。大隈は、立憲改進党の政治家、福澤は、「学問のすゝめ」の思想家であり、ふたりとも大家として意外にも肌が合ったとされる。令和五年(二〇二三年)甲子園全国高校野球大会決勝で、慶應高校が、百〇七年ぶり世紀を超えての優勝を果たしたその快挙と勇姿に、ぼくの処女作本が年末に文壇デビューすることもあり、まさに、ペンは剣より堅しという慶應のモットーが体現し、そのノーサイドとしての私学の雄としての存在を示しているのだと思う。

明治四年以降、大久保利通による制度改革で、参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸孝允と西郷隆盛によって人事が刷新された。岩倉具視使節団が出国すると、大隈は留守政府で、三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、井上馨と対立する。明治六年井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼任、大蔵省の実権を握った。一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受諾、博覧会事務局を設置。大隈が総裁に就任、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となる。

明治六年の政変では、大隈は途中から反征韓派として活動する。征韓派は失脚し、佐賀藩の江藤新平、副島種臣と袂を分かった。この後、大隈は参議兼大蔵卿に上り詰める。明治十一年、紀尾井坂の変で、大久保が暗殺されると、実権は伊藤博文に移った。伊藤博文に尽くすよう誓った大隈は、会計検査院創設のための建議を行い、会計検査院は明治十三年(一八八〇年)に設立された。明治十四年には、統計院の設立を建議、設立し、大隈自ら院長となった。一方、明治十四年の政変で、自由民権運動が盛り上がり、自由民権派が、東京横浜毎日新聞で、北海道開拓使の払い下げを報じると、世論は沸騰した。リーク先が大隈ではと観測が広まり、大隈は孤立を深めた。大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や、農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。

大隈は下野すると、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬飼毅、矢野文雄らと協力し、国会開設に備え、明治十五年(一八八二年)立憲改進党を結成、党首となる。さらに、小野梓、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国ら鷗渡会員の協力を得て、官学にも匹敵する高等教育機関育成のため、北門義塾があった東京郊外の早稲田に、現早稲田大学の前身東京専門学校を創立する。それと共に、女子高等教育にも尽力し、日本女子大学を創立、立教大学発展にも関わった。第一次世界大戦に勝利すると、対華二十一ヶ条要求に関与した。大隈重信は早稲田大学初代総長として就任し、「大隈老候」として今日に至るまで、早稲田大学関係者に親しまれている。

幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には、井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら内閣総理大臣に就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。明治二十四年、早稲田文学創刊。大正二年、当時の総長である大隈重信は、東京専門学校の創立三十周年祝典で、早稲田大学教旨を宣言し、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。建学の楚は、長崎の藩校「致遠館」のグイド・フルベッキであり、新約聖書、アメリカ独立宣言の影響を受けている。同年、孫文が大隈重信総長を来訪。英国の政治経済学をモデルとした、早稲田大学は大正九年(一九二〇年)、日本の私立大学では、慶應義塾大学などと共に、最も古い大学令に基づく大学となった。

大正十一年(一九二二年)大隈重信死去、日比谷公園で国民葬。大隈老候亡き後も、早稲田大学は、全国は数多、海外にまで及ぶ稲門会なる校友会組織を擁し、発展を続け、今日に至るまで、日本国家の教育・研究の形成を牽引してきた学校であり、慶大と共に、「私学の雄」と称され、私立大学の最高峰に位置する。昭和六十三年(一九八八年)愛でたく、私はその第六十八期生として入学。弟も同時に、この年、東邦大学附属東邦中学校高等学校に入学した。成績優秀で早稲田大学政治経済学部合格し、尚且つ、数学ができないという理由で、また医学という学問が、二十一世紀に入っても、尚未だ未発達、未解明な学問である一方、法学という学問が、古代ローマ時代六世紀には既に、ユスティニアヌス帝が、万民に普遍なるローマ法の確立によって、その不動たる地位を築いた、連綿たる歴史ある学問であることも影響し、何よりも「自分を信じて生きてきた」その証として、自分が「自由」を人生において謳歌したいからこそ、「法の支配に基づく自由」を重視し、法学部に進学するも、大学の講義に関心を示さずタイ渡航を経て、またも世界一周流浪の放蕩旅に旅立つ。

坪内逍遥の文学科の流れを汲む、伝統の早稲田文学界から、著名な小説家の翻訳家で知られる、早稲田大学第一文学部演劇科出身の村上春樹が、ノーベル文学賞に、度々ノミネートされていることを受けて、隈研吾設計、柳井正ら出資による、令和元年(二〇一九年)、早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館の隣に、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)開館。式典では早稲田大学特命教授ロバート・キャンベルを囲んで、小川洋子、村治佳織、川上弘美、伊藤比呂美、朝井リョウら現代作家が会堂し、朗読イベントが催された。早稲田大学卒業後、海外を放蕩する昭和の風来坊として、早稲田キャンパスの外で、したためてきた拙著も寸志ながら、文壇の登竜門にデビューするべく、村上春樹ライブラリーの一冊に加わる所蔵の運びとなった。

長年、税金投入額で首位を行く官学の東京大学を羨んできたが、昭和の青春謳歌、平成の艱難辛苦、令和の起死回生と疾風怒濤の早大卒業生として、文武両道でリードする早稲田大学が、駅伝、野球、ラグビーを三大スポーツ強化基金として注力する、早大ラグビーをこよなく愛する、七転八倒のラガー・マンかのような人生を歩んできたからこそ、ノーサイドの笛が鳴るまでは、人生という晴れ舞台を、縦横無尽に展開したい。麗しい令和となっては、早稲田愛に満ちた個性溢れる母校都の西北、都の杜早稲田大学出身者として、情熱偏差値では他校の追随を許さない、建学の礎、グイド・フルベッキの祝福の讃歌に他ならない早稲田大学を、青春の故郷として誇りに想っている。

戦後、中曽根康弘までは、高度経済成長の日本経済をトップダウンで牽引するべく東大出身の首相が優位の座を占めてきたが、バブル景気に沸く昭和六十二年(一九八七年)冬、角福戦争の果て、自由民主党内の二大派閥の権力闘争の末、親米派の清和会を押さえて、日中国交正常化に尽力した田中角栄を袖領とする日本の独立とアジア諸国との融和を掲げる竹下登らにより経世会が発足した。清和会は、岸信介派の流れを汲む、保守傍流であり、福田赳夫から安倍晋太郎に引き継がれ、総理擁立者として小泉純一郎、安倍晋三などタカ派が目立つ。清和会は、自主憲法論、憲法改正論、再軍備を唱える一方で、福田赳夫は、日中友好平和条約を締結した親中派であり、康夫も胡錦濤国家主席と会談に臨み、戦略的互恵経済パートナーシップにおいて合意している側面もある。一方、経世会(平成研究会)は、田中角栄の木曜クラブを前身とする名門宏池会と共に保守本流であり、小沢一郎、小渕恵三、橋本龍太郎らに引き継がれ、現在、茂木敏充が領袖となっている。経世会は、領袖の田中角栄が、ロッキード事件で逮捕されたことをはじめ、リクルート事件、佐川急便事件と、政治とカネの問題が噴出していると言える。内閣総理大臣として、憲政史上最多を誇った東京大学出身者は、いわば官僚主導のエリート型の、ガリ勉君の秀才派は首相適任者としては、もはや好機を逸し、むしろ玉石混合でも、喜怒哀楽を共にし、野性味溢れる、早大生が人気を博し、米ソ冷戦終焉後では早稲田大学出身者が、人情味が厚いのか、首相適任者として与党自由民主党総裁選の一世を風靡して最多を誇り、世界不況に見舞われる、日本経済を総力戦で、立て直しを推し進めるべく、戦後の石橋湛山を経て、竹下登、海部俊樹、小渕恵三、福田康夫、森喜朗、野田佳彦、岸田文雄を輩出している。その他にも数多いる早稲田大学出身の著名な政治家の中で、総理の座とは縁がなかったが、無産階級の出身ながら、労働運動に身を挺し、戦後躍動する社会党を牽引したにも関わらず、右翼の凶弾に倒れた、日本社会党党首の浅沼稲次郎の名は挙げる必要があるだろう。現在、政界の王座の栄冠は、覇者早稲田に輝いているかに見える。

安土桃山時代、羽柴秀吉、後の豊臣秀吉と堺の豪商、千利休との確執から生まれた茶道から派生した表千家流、裏千家流、武者小路流の三千家流のひとつ表千家流同門会。新羅飛鳥時代、お釈迦様によって印度で発祥した仏教が中国、朝鮮半島から伝播すると、聖徳太子の遣唐使の小野妹子を始祖とする、仏前への供花として室町時代、興隆した、京都の臍、つまり京都の真ん中と呼ばれる、親鸞が聖徳太子からの夢告を得て、浄土真宗を開祖されたとする、家元池坊の菩提寺である天台宗紫雲山頂法寺六角堂を仰ぐ池坊華道会。日本伝橙文化の伝承者として相応しいよう、古代ユダヤのソロモン王朝の栄華とも言える、自分がソロモン・ブラザーズ証券の馴染客がいた、四十年後、日本伝燈文化界で活躍するであろう原点となる一流の社交術を授けて下さった華麗なる赤坂華泉のママさんが、接待を学びに、フランス留学したことを模範にすることは、しっかりもので機転が効く千恵先生の師弟愛が芽生えた愛弟子として、末永くご厚誼賜れるよう精進するべく、自分の生命の原動力としてプリユ先生に叩きこまれたフランス語で、DALFC1、パリ大学進学を目処に、この世に生を受けて半世紀あまりが過ぎるのを機に長寿を目標に、不老不死の会得を試みようとしている。

その間も、英語の勉強は続けて、国際部の講義にも出席していたので、前身は中国出身の著名人が多数活躍した戦前の早稲田大学清国留学生部で、現在の早稲田大学のリベラルアーツの拠点、国際教養学部、早稲田大学国際部GLCA/ACMプログラム奨学金に選抜試験に合格。ミッション系(メソジスト系)リベラル・アーツ・カレッジであるアルビオン・カレッジに平成元年〜平成二年(一九八九-一九九〇)に太平洋の上空で小林真理子さんに折り紙を教わりながら渡米。シカゴ・オ・ヘア空港に到着後、先に、アイオワ州コー・カレッジでオリエンテーションを済ませ、交換留学。米国滞在中も、ア・ナーバーのミシガン大学のディスコ・パーティーに誘われたり、グレイハウンドのフリーパスを利用して、カナダ、メキシコを含めた五千マイル米国大陸バス旅行。留学修了時には、現在有人宇宙旅行社のヴァージン・ギャラクティックを傘下に収めるヴァージン・アトランティックで、ニューヨークからロンドンに大西洋を横断して飛んで、レンタカーで走行距離六千キロ欧州周遊旅行。パリ、ケルン、ジュネーブ、ミラノ、ローマ、ベルリンなどに立ち寄り、トップレスで海水浴している南仏コートダジュール等を経て帰国。この大西洋を挟んだ、五千マイル米大陸縦断バス旅と、走行距離六千キロ欧州周遊レンタカー旅は、二十歳間もない初々しい凝縮された課外授業として、アルビオン・カレッジ米国交換留学の一生の宝の思い出になった。

平成五年(一九九三年)早稲田大学法学部卒業。就職活動時、TBSの面接を受けた時、報道特集と思わしき面接官に出会ったが、今思えば、頑固、脱原発路線で譲らないTBSには辟易している。三井物産、三菱商事落ちで、東京丸の内三菱村にある東京電力他、サウジアラビア王国政府、クウェート政府が出資し、陸軍幼年学校から、旧制第六高等学校、岡山大学法文学部出身で、田中角栄に旧通商産業省(現経済産業省)から首相秘書官として抜擢され、地方国立大学出身としては異例の、元通商産業省事務次官の小長啓一が、代表取締役社長を務めるアラビア石油株式会社入社。小長啓一は岡山大学卒業時、国家公務員上級職試験合格と共に、旧司法試験にも合格しているため、アラビア石油を退いた後は、弁護士登録している。私の早稲田大学入学時の元早大総長、西原春夫は惜しくも鬼籍に入られたが、小長啓一は今も九十二歳にしてご健在である。益々のご活躍を祈念したい。アラビア石油は昭和三十三年(一九五八年)、アラビア太郎、満州太郎、山師太郎こと、秋田県出身で、慶應義塾普通部、札幌農学校、旧北海道帝国大学、現北海道大学農学部を経て、後に満州で実業家として活躍した山下太郎が、「日の丸油田」の安定供給を図ろうと設立した、その石油事業に付随する外交任務をも兼ね備えた半官半民の石油会社である。サウジアラビア・クウェートのカフジ油田を掘削して、国内の大半の油田を占有、高度経済成長期には、その経常利益においてトヨタ自動車を上回る優良企業でもあった。しかし社運はすでに下火になっており、私は入社後、専らこの権益更新交渉の行方に悩まされることになる。ただこの当時、湾岸戦争最中で、自分は人質のひとりとして、企業戦士として、身代に取られていたのかもしれない。

かつて存在した日本の特殊銀行、長期信用銀行であるメガバンクの一角を占めることとなった現みずほ・フィナンシャル・グループの第一勧業銀行、富士銀行と共に一員となった日本興業銀行は、明治期軍需産業の振興や、第二次世界大戦後は戦後復興、外債発行による企業支援で日本経済の発展に貢献した。私は、アラビア石油の主要取引銀行である日本興業銀行本店に、アラビア石油の役員用の自動車で出納業務を任された。直近の上司は、経理ニ課のF氏、経理二課のF氏はサウジアラビア政府やクウェート政府に対するロイヤルティや税金を監査する国際税務の担当だった。F氏は現在、吸収合併した日鉱日石石油開発のホーチミン事務所長の任にあたっている。

もう一方の主要取引銀行である三菱銀行は、岩崎弥太郎が明治期に創設した三菱財閥で、一八八〇年三菱汽船会社から独立した三菱為換店が、一九一九年三菱銀行として設立された。その後三菱銀行は拡大して、三菱重工業、三菱商事とともに三大三菱中核企業として、旧三菱財閥、今の三菱グループを現在三菱UFJ銀行となり支えている。私は、三菱銀行本店の出納業務も任された。私は、統合失調症により、令和二年(二〇二〇年)から令和三年(二〇二一年)まで、三菱商事が出資するフィンテック、AIなどを手掛けるファイナンシャル・テクノロジーのトランザクション・メディア・ネットワークスという会社で、発達障害、精神障害ほか、障害者向けの農業の仕事に就き、発達障害の子と一緒になって、野菜作りに汗を流して働いた経験は、特に飯田詩織ちゃんとお友達になれたことは、小三の担任の飯田応子先生が夏休みの宿題にした、原爆被害の後遺症である白血病患者が登場する、「ふたりのイーダ」という本を童心に帰り四十年ぶりに読み返して、原爆について考え続けてきた自分が、改めて人間の尊厳に気づかされる思いを強くもった。

他都市銀行本店出納業務の傍ら、元来アラビア石油は、ナフサ、ディーゼル油の他、火力発電所で電力を起こすために必要とされる硫黄分を多く含んだ重油の供給を得意としていたが、目下、社内はチェルノブイリ原発事故の立て直しに躍起になっており、となりのアフリカ・コンゴのウラン資源開発を進めるブラック・ヤクザの原子力セクションに立ち合うことで、核・原子力を巡り、原子力事業に精力的な会社側と、静謐な高校生の平和大使のような初心な広島・長崎の反核思想を拭えない自分との間でジレンマに陥り、キリストの意味「油を注がれた者」の洗礼を受ける。キリストは受難の迫害の道を歩むことになるが、私にとって、そのときのカルチャーショックは、清水の舞台から飛び降りる心地で、それにより、オイルマンとして、後に核融合について拙著を記す貴重な機会を得たが、統合失調症を罹患して、人事部付となり、会社を去ることになる。今思えば、核・原子力という永遠のテーマにもなりそうな課題を、短期間に区切って組み込まれた、これしかないという奇跡的なアラビア石油の勤務体験は、怪我の功名として、後に傑出した拙著を生んだ、災い転じて福と成した原点であったことは間違いない。「鶏頭となるも牛後となるなかれ」という諺通り、予想だにしてなかった、より困難な道を選択したからこそ、その収穫は奇跡的だったと言えるだろう。

運命の不条理さを謳った文学作品は、アルベート・カミュの「異邦人」が有名だが、運命の不可逆性、不遡及性について祟ってはいけないと思うのは、運命の不条理よりも前に、授かった運命を野性の本能で嗅ぎ分けながら生き延びていることはもとより、ときに人生の航海の舞台で順風満帆に進めば、自分を見失い、多くのことに、場合によっては何も気づかないまま、人生をやり過ごしてしまうということである。それよりも逆風によって難破し、座礁して自分の進んできた航路と船舶を見つめ直してこそ、自分を発見できる旅の醍醐味であるように、はじめて夜空を仰ぎ、満天の星空に感動を覚えるものである。今更ながらに、モーセの十戒ってあるんだなと思う。いや、真のリアリズムに眼を覚ますためには、モーセの十戒の裁きを受ける他、自分の革命的な前途の道は拓かれなかったと言えるかもしれない。早稲田大学政治経済学部の学問の扉を開くことなど、時間と学費の無駄であるかのように、早稲田大学は中退者が出世するという定説通り、自らの社会学習を通じて、自らの政治信条の常識を覆す結果となったのは、一浪士として負傷を負いながらも、自分の人生に於いて今更ながらに進歩的であるという意味で収穫であり、前進だった。いや、大躍進だった。数学が出来ないと思って、政経ではなく法に進んだものの、駒場東邦、早大学院、早大本庄ら騒々たる超進学校出身者が独占する政経枠と共に、法枠から、大検ただひとり道なき道の闇を照らして、道を切り拓いたバイパス甲子園児として、アメリカで経済学を学ぶ機会を獲得した事は、自らの努力も去ることながら、これより他選択肢の道がなかった点において奇跡だったとも言える。駿台の全国模試で最上位の成績を独占していた成果が報れてから三十年、大医として、士族の末裔の生まれを現代社会に活かすべく、表千家と池坊の門を叩き、日本伝燈文化界に嵐を吹かそうと言うのだから、これはもう奇跡の降臨という他ないだろう。ブラックハッカーのような罪を犯そうとして、統合失調症を罹患したとき、大学の刑法の講義で、外患罪は死刑しかないと言われて、当時恐れ慄き、大学側と自分との間で桎梏し、軋轢をもたらしたが、母校都の西北都の杜、早稲田大学は、ぼくに中退どころか、今となっては人生の集大成となる大冒険へと、背中をそっと後押ししてくれたに違いない、と今さらながらに確信の念を強くしている。早稲田大学という真価は、卒業証書にあるのではなく、広く模範国民の成就という目標を達成するべく、冥土の旅への土産となる浄土楽園の光さえ差し込む、俯瞰した人生の集大成そのものを咀嚼できてこそ、醍醐味が発揮されると、還暦を前にしみじみと感じている。それは核融合の神学を覇者早稲田から学んだことに他ならない。昭和の時代、無縁仏かの如く中学受験を唯一の受け皿である茗渓学園に半ば強いられ、入学後失恋を伴い、統合失調症という致命的なハンデイを背負ったものの、令和に入り、日本伝燈文化界という法門に入り、茗渓学園という評判は、ぼくにその復活を遂げ、リベンジを果たすべく、名声の誉れを高くしている役割を担ってくれるのかもしれない。それも、超法規的措置が講じられ、幕末以前の士族の身分が復活して、俸禄を与えられる武士の身分が生涯に渡り保証されていると言っても過言ではない。

余談になるが、私は、令和という時代に、自分のかけがえのない人生が、茶道、華道を学ぶ機会を得て、蘇ったと思えて仕方がない。令和という元号の命名の万葉集からの初の国書からの出典となった梅は、桜のように艶やかに、突如として咲き、慌しく散っていく姿と異なり、慎ましく凛として静かに密かに花を咲かすので、それはまるで蘇州で十七歳の朱冬梅と初々しく交わした淡い接吻の甘酸っぱい青春が思い出されるような、日の丸弁当やおむすびの漬物が桜ではなく、梅干しであるように、私は梅が一番好きな花である。言うならば、小集団や、家族における内部的な忠孝をより重んじる日本人の特性よりも、自分は、広く国家、社会にも通じるような外部的な仁義を兼ね備えることで、広く華夷秩序を構成する中国、台湾、朝鮮、韓国、琉球、越南と呼ばれたベトナムなど、さらにメコン川を渡れば、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーといったインド・サンスクリット圏へと展開する、親愛なる大亜細亜人として利益を共有していると言えるかもしれない。

二〇十一年東日本大震災による、一九八六年のチェルノブイリ原発事故に続く、またしてもの福島第一原発事故で、石油化学エネルギー業界に在籍していた一員として思い悩まされたが、地球環境問題に喚起されることになる。この時点で、オッペンハイマーが主導した連合国側の米軍による広島、長崎の被曝国体験からの核廃絶の考え方と袂を分かつことになった。なぜなら、震災のすぐ後のタイミングで、大正十二年の関東大震災の際の混乱に乗じて、「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流布された、卑賎なる者として処遇を受けた朝鮮人虐殺という暴力の連鎖が象徴する、人間の錯乱状態の再来かのように、二〇十二年李明博元大統領の竹島(韓国名独島)上陸が契機となり、私自身は七回に及ぶ渡韓とともに、昭和の時代、暴力団の構成員の十人にひとりは、在日朝鮮人、韓国人と言われた負の歴史を払拭し、ヤクザも大卒が当たり前で、インテリ化したように、旧来の任侠道から学識派に転換するべく、二〇〇五年封切りとなった在日の青春映画、沢尻エリカ主演「パッチギ」にも影響を受けて、韓流文化の功罪が両論あるにせよ、従来の在日史、韓国・朝鮮史の闇の常識を覆す、自分のコリアヘイトに対する抗議活動、人権擁護活動と韓流ブームの全盛期がシンクロすることで、鮮烈な輝きが解き放たれた韓流文化に刺激を受けたのだった。

整理すると、二〇十〇年代前半に日本人にとって重要な出来事が三つ起きている。二〇十一年の東日本大震災、続いて福島第一原発事故、そして二〇十二年の李明博大統領の竹島上陸である。この三つの出来事をどう関連付けるかで、コリアヘイト狂者、原発反対論者、そしてぼくの原発肯定論者に日本の世論は分断されてしまった感じがする。個人的には、震災の混乱による在日コリアンに対する人権擁護活動が、結果的に自身の震災の混乱による原発の安全性に端を発した核原子力問題への啓発に繋がったことは、運が良かったと言える。

一方で、デフレ不況の閉塞感が拭えないネトウヨと呼ばれた隠れトランプともいえる日本人らの、躍動する韓国経済に対する、嫉妬からの、憲法で保障された明白な法的人権を侵犯する、在日コリアンへのヘイトスピーチに対抗する、国際社会、日本社会、地域社会でのコリアン、在日コリアン、在外韓胞の連帯及び法的地位向上促進という人権擁護目的での韓国語学習に覚醒されたのだった。そのことで、旧日本軍が犯したアジア、中国、朝鮮、占領・植民地支配の「ファシズム史観」からの加害者状態での、もともとは、ナチス・ドイツの懲罰として利用される予定だった、リトル・ボーイ(広島・ウラン型)とファットマン(長崎・プルトニウム型)の原子爆弾が、先にドイツが降伏したため、抵抗をやめなかったファシズム日本に下された原爆投下という結果の認識が生じたからである。

核兵器が危険極まりないのは論を待たないが、マンハッタン計画により原爆投下に利用された、トルーマン大統領によって発動された、オッペンハイマーら科学者によって発見された核エネルギーが、同時に、東西冷戦の軍拡競争の中で、核の民生化を進めようとした、米アイゼンハワー元大統領が主張した、「核の平和利用」と謳われる、ベースロード電源としての原子力として、現代社会のクリーンエネルギー供給源として利用されなければならない必要性もまた認知するようになった。核兵器の戦時破壊力が、相対悪なのか、絶対悪なのかは、連合国と、被爆国日本で割れるとして、その核の破壊的威力に伴う原子力エネルギー創出力の平時有効性が、石油などの枯渇性資源の二酸化炭素排出による地球温暖化の悪影響、また、二度にわたるアラブ諸国のナショナリズム高揚による、原油価格高騰が起きたオイルショックで、世界的原発建設の普及の機運が見られた、国際原子力機関IAEAを筆頭とした、原子力の環境的経済的科学的国際社会の合意形成が蓄積されていった事実は、二十一世紀以降の世界においても引き継がれていくに違いない。福島第一原発事故に伴う、三十年にわたる、トリチウム汚染の基準値以下に薄めての処理水の、海洋放出という核分裂炉事故という私たちの負の遺産は、それが文明の副作用として避けざるを得ない、廃炉への道筋、そして期待される国際核融合炉の開発、実現、運用という次の核科学の支配、管理のステップに向かう、文明の工程路をたどっているものとして、前向きに受け止める他ないだろう。

超電導リニア中央新幹線に導入される超電導リニアモーターカー、高速鉄道や重工業による電力消費、また今後普及するであろうEV(電気自動車)社会などの恩恵を蒙る、利便性や快適性を追求した近現代文明を営む我々は、相応のコストやリスクといった対価の負担として、原子力技術の導入、核兵器の核の傘の展開(通常兵器による戦争回避による一時的平和捻出)で、人類の文明史が、農業革命、工業革命、情報革命、宇宙革命と、我々の文明史のフェーズが上昇している現実から、最新の現代文明論の闊達な耕論が期待される。

日本人が核の被害者であることは、とりもなおさずアジア侵略ファシズムを犯した残虐な加害者にほかならず、戦後八十年近くの歳月が流れる、多面的な歴史の闇に光を当てるロジックスの立場に立てば、その論理は簡潔である。結果として私は史実を顧みて、ファシズムを否定して、「核の平和利用」である原子力エネルギー利用の正当性の概念を獲得することで、左翼幻想理想主義から訣別して、エネルギー保守現実主義に沿う原子力有効利用へのラジカルな思索転換を図ることになった。まずもって正当な科学(sein:独である)を認識して、故に正統な倫理(sollen: 独べきである)を導き出した結果として、東京電力の構造的改革が求められ、三菱化学(現三菱ケミカルグループ)の小林喜光が、東京電力の会長に就任した。

こうしている間も、欧州最大級のウクライナのザボロージャ原発が、攻撃を受けて、人類史にとって未曾有にも、ロシア軍に制圧された。原発が人類の重要なライフラインであることに違いはないが、一端危険に晒されると甚大な被害が出ることもまた事実で、今後の動向に注目したい。

いずれにせよ、コリアンに対するヘイトにしろ、大陸中国による香港、台湾に対する弾圧の雨傘革命にしろ、ロシアによるウクライナ侵攻にしろ、人間の尊厳への欠乏は、自分として、その言語学習を通じて、彼らの希望と幸福と未来を後押しすることで、自分もまた、人間としての成長を図る好循環を得ることとなった。特に、ロシアによるウクライナ侵攻で鮮明となった、スラブ民族で興味深いのは、ロシアがソビエト連邦を経て現代ロシアになるまで、ルネサンス文芸復興も、宗教改革も、ローマ法をも受容せず、古代ギリシャの原風景がそのままスラブ文化に漂流していることだ。二〇一三年、宗谷海峡を越えて、稚泊航路を渡り、まさに「津軽海峡冬景色」ならぬ、「宗谷海峡秋景色」となった、ぼくが旅した稚泊航路と、大阪釜山航路は共に、自らの人生の迫害からの浄土楽園へと救済が行われたノアの方舟だったような気がする。その樺太を旅したときに、ユジノサハリンスクのロシア正教会で、聖母マリアのイコンを授かった。イコンは、ぼくがこの世を去った後も、ぼくの人生の奇跡の御守りとして、その努めを果たしてくれていることだろう。スラブ民族の精神と文化の原点であるロシア正教会とは、長い付き合いになりそうだ。インド神学を糧とするとともに、下賤なる者として浄土楽園への祈りは、ロシア正教会に近いと言えるのかもしれない。

沖縄本土復帰50年を経て、太平洋戦争時、本土の身代わりとなって犠牲になった琉球(沖縄)をはじめ、朝鮮、中国、アジアを焦土とした、連合国側のABCD抱囲網(A:America米、B:Britain英、C:China中、D:Dutch蘭)に追い詰められて戦争の引き金を引いた同盟国の一員の日帝(日本帝国主義)が犯した甚大な過ちを、ドイツナチズム、イタリアファシズムの同盟国の猛省とともに(アジア諸国における日本軍国主義に対する反省のコンセンサスが未だないこと、イタリアファシズムが腰抜けだったこと、ドイツナチズムが、フランス共和制の協力のもと徹底して精算された違いはある)戦後、国際連盟を補強した国際連合憲章が採択されたにも関わらず、安全保障理事会の拒否権を所持する米国が朝鮮戦争、ベトナム戦争を起こし、ロシアがウクライナに侵攻して、今度は、中国が台湾侵攻、日本侵攻の危険性をはらむ、私たちは、歴史の負のスパイラルの最中にある。この大国の横暴に、暴力ではなく、我々が持ち得る良識、コモンセンスに訴えて、人間の尊厳の渇望に祈りを捧げたい。

こうした経過を経て、昭和の時代に疎遠にされた帰国子女の役割について、二十一歳の若さでアメリカの大学の教壇に立つも、その無縁仏のような昭和の幼い世界観に、自ら帰国子女として重責を課すことで、従来の核、原子力についての自分の価値観と、会社側との見解の乖離により、司法の場で裁かれてそうなったのか、不慮の病を患ったのか釈然としないのだが、いずれにしろ統合失調症を罹患した。早稲田大学の真価を、学業よりも色事を優先させたことにより自分が病を患ったことで、長年に渡って疑義の念を穿鑿(せんさく)してきたが、それは、安保闘争全盛期に鬱つを抜かした無能な教授が繰り広げた退屈な講義に原因があるのではなく、無能な教師より良書こそが市悦の師であるように、校外の膨大な多数の卒業生の豊潤なネットワークと、その輝かしい功績にあるのだと実感するのだった。

そのことで、早稲田大学を経ることで、得たものと失ったものと双方とも甚大だったが、ぼくに憧れの海外生活と、急足ながら世界旅行の子供の頃見た夢を叶えてくれた。いや、自分は華道を嗜むことで、早稲田大学はほかの何にも代えがたい人生の醍醐味を恵んでくれたのではなかろうか。何より色事こそ、自分の中心関心事だったぼくに、早稲田大学はその通りに望みを叶えてくれたのではないだろうか。醍醐味というのは、他でもない早稲田大学が謳う「学問の独立」の真の意味に首を傾げてきたが、先生から教えられるのが早稲田大学なのではなく、たとえ社会の嵐に揉まれようとも、人生の舞台に於いて、展開戦術を繰り広げ、自ら進んで実践する姿勢こそ、「進取の精神」と相まって、後ろでそっと見守ってくれるラグビーの監督のような偉大なる早稲田大学の神髄があると、校友会誌西北の風が届くタイミングで自覚するのだった。何より大学の体育の実習でカナヅチだった水泳を、不可能を可能に人生を変えてくれた早稲田大学の本領を信じて、華道の己れの修錬道をいつか集大成させたい。

それこそ、オイルを燃やすべき石油会社の社員でありながら、女性の官能美に燃えた昭和、平成だったが、令和からこそは、石油や、原子力、地球環境問題に灯りを灯す新時代を切り拓いていきたい。というか、令和のトランザクションメデイアネットワークス社勤務を経て、茶道、華道を嗜む機会に恵まれ、私の人生において一貫して向けられた、生命の神秘の象徴である女性的官能美の鑑賞が、専ら動的な肉体美の美しさへの放蕩から、栄華盛衰となり、輪廻転生によって、動物から植物にも帰ることで、主に、いけばなの美しさに向けられた静的な官能美ともいえる鑑賞へと嗜好が変遷してきたことは事実である。一方で、和歌を始めとした歴代の女流文人がしたためた恋文の文献に代表される日本の古典文学へと誘われようとしている。

統合失調症罹患時初期に、自分のかかりつけ病院が、ボクトウ病院と脅され、恐怖の念を覚えたが、ボクトウを、木刀でもって剣道の稽古に参加して禊を済まし、更に剣道の稽古に精進して、物理的格闘術そのものよりも、剣道が醸し出す精神的涵養を滋養し、墨国メキシコを訪れたことを踏まえ、それはアラビア石油の、古代ギリシャローマ文明を吸収して、ルネサンス黎明期へと橋渡ししたアラブ文明のイスラムの教えである、千夜一夜物語のアラブと魔法のランプの願いがついに叶い、千恵先生が渡印され、一服のお抹茶に込められた侘び寂びの美しさと、一輪ずつ挿すいけばなの仏前の美しさが宿す生きる喜びこそ、自分がこの世に授かった生命の讃歌ではないかと、千恵先生とのご縁を頂戴して、お釈迦様が悟りを開いた様に、ぼくもまた悟りを開いた。その行いが大医としての務めの一助になればと願っている。

奨学金と障害年金で、もともと、外交官、商社志望だったため、香港、マカオ、広州、桂林、南京、上海、北京、大連(中華人民共和国)、バンコク(タイ)、デリー、アグラ、カルカッタ(インド)、カトマンズ、ポカラ、コダリ(ネパール)、シカゴ、アイオワ、アルビオン、カラマズー、アナーバー、デトロイト、ボストン、ニューヨーク、ワシントンD.C.、テキサス、ラレド、アンカレッジ、フェアバンクス、バロー(アメリカ)、トロント、モントリオール、ケベック(カナダ)、ヌエボラレド、メキシコシティ、アカプルコ(メキシコ)、ロンドン、リーズ、グラスゴー、エディンバラ、スコットランド(イギリス)、カレー、パリ、デジョン、アクサンプロバンス、ニース、カンヌ(フランス)、ケルン、ボン、ベルリン(ドイツ)、ルクセンブルク、ベルン、ジュネーブ(スイス)、モナコ、ミラノ、ローマ、フィレンツェ、ベニス(イタリア)、(バチカン)、(ユーゴスラビア)、ブダペスト(ハンガリー)、(オーストリア)、ソウル、釜山、海印寺、慶州(大韓民国)、チュニス(チュニジア)、ウラジオストック、ハバロフスク、カムチャッカ、コルサコフ、ユジノサハリンスク(ロシア)、イスラマバード、カラコルム、フンザ(パキスタン)、ホーチミン、ハノイ(ベトナム)、アンコールワット、シュリムアップ(カンボジア)、ケアンズ(オーストラリア)など、三十四ヵ国外遊。

地球儀を俯瞰する外遊を展開した私は、地球環境問題、気候変動対策において、SDGs目標達成貢献に、日本の資源希少国地勢学的制約から、カーボンニュートラル達成のため脱石炭、脱石油には、積極的に理解を示すも、原子力政策に関しては、中国の原発増設によるウラン資源が、あと百年で枯渇することから、従来の核分裂炉を維持しつつ、核燃料サイクルを利用したプルトニウムを再処理する高速増殖炉、高速炉の研究、開発、実現、さらには、核融合エネルギーの実現に期待を寄せる。すなわち、環境問題の解決には、カーボンニュートラル達成のために、原子力の有効利用が必要だと考える。再生可能エネルギーに用いるリチウム、ニッケル、コバルトといったレアアース資源の採掘現場で、新たな環境破壊を招いていることからも、また電気を通す銅の採掘場となる銅山が南米の一部に偏在していることからも、大半の太陽光パネルの製造拠点が中国に依存していることからも、さらに太陽光パネルの場合、初期投資した太陽光パネルが、減価償却を終えたとしても、リサイクルできず、廃棄物としてゴミになるという問題点を抱えていることからも、核燃料サイクルを活用した原子力の有効利用が求められる。それと同時に、最近の再生可能エネルギーの技術力向上から、原発何百基分にも匹敵する洋上風力発電の動向には注目している。

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二〇一六年日本政府は、高速増殖炉もんじゅの廃炉を決定したが、核燃料サイクルは維持するとした。理由は三つある。第一は、核燃料サイクルが、関係者の夢と意地にあることである。ウランを一回燃焼させただけでは、その資源量は限られ、廃棄物の問題も大きく、原子力発電のメリットは小さい。高速増殖炉は無理でも、フランスなどと連携して高速炉(燃料は増殖しないが、使用済み核燃料の再利用になり、高レベル廃棄物の量が減らせる)の実用化を目指すことで関係者の夢と意地をある程度保てることである。第ニは、使用済み核燃料の最終処分場の目処が立たないことである。これまでは、全量再処理するという建前で、使用済み核燃料の中間貯蔵施設の立地を認めてきた自治体は、それがなし崩し的に最終処分施設となることに強く反対している。また、各地の原子力発電所の貯蔵プールに保管されている使用済み核燃料の最終処分場を探さなければいけない。これまでは資産として計上されてきた使用済み核燃料であるが、その扱いを変える必要も出てくる。第三はプルトニウムの処理に困ることである。プルトニウムは原子爆弾の材料になるものであり、その保有は国際的に厳しく制約されている。日本では、高速増殖炉の建設を名目に、その大量保有が例外的に認められてきた経緯がある。
@大守隆環境エネルギー経済学出典

また、産業革命に端を発した、枯渇性資源である石炭、石油の利用による、今日グローバル化した地球環境問題の要因には、資本主義の歪による格差問題や貧困問題が背景にあると認識している。すなわち、国家や大企業は、気候変動に対して何ら解決策を示してこなかった。それどころか、収奪と負荷の転嫁、外部化を推し進め、中心の豊かさを捻出する代わりに、グローバルサウスと呼ばれる周辺部の貧困を深刻化させている。もちろん、マルクス主義経済学を標榜する、中国や北朝鮮などの独裁主義の横暴ぶりにも、加担するつもりは毛頭ない。この歪んだ資本主義の構造的な欠陥に、全人類がグローバル規模で、国連や赤十字社といった超国家級福祉概念の、マイケルサンデルが指摘するいわゆる、市場経済限界論からの公共善の導入を図るべきだと考える。ここで言うリバタリアン自由放任主義「小さな政府」か、公正論「大きな政府」かの議論は、レーガン、サッチャー、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三を代表格とする新古典派経済学が幅を効かす現代社会の自己責任社会の失敗が、米中対立、ウクライナ戦争、グローバルサウス、インフレ、資源高といった問題が露呈する今、岸田文雄が唱える新しい資本主義に期待することをはじめ、公正論の見直しにも期待したい。

そのような、資本主義社会の負の連鎖を断ち切るべく、一方の富の繁栄とは負の連鎖反応が顕著になるなかで、産業革命の先陣を切ったイギリスでは、労働党の影響もあって国民保険が成立した。また未曾有の恐慌で多数の失業者が発生したドイツにおいて、自由権とともに、社会権の誕生をみたドイツのワイマール憲法の流れを汲む日本国憲法下、日本においても、戦後、労働法や、健康保険、年金制度が整備された。過去を顧みれば、社会福祉、相互扶助の考え方が重要な政策として十二分に理解できるが、私は、前に進む者の一人として、科学の真理が切り拓く栄光を、科学の栄冠を信じて生きていきたい。それと同時に、科学の進む道が正しいのか、歴史と古典を省みることを忘れずにいたい。

地球温暖化が進行するうえに、SDGsと謳われる再生可能エネルギーの切り札とされる電気自動車に利用される、リチウム、コバルトといったレアアース資源の採掘現場にまで新たな環境破壊を招いている。人新世の時代を生きる危機に、エネルギー資源の解決のため、洋上風力発電や核燃料サイクルなどを参照しながら、資本主義の未来が、民主主義、地球環境問題や宇宙開発といった未来と親和性が保てるのか、政治経済モデルを提示して検証したい。

こうした二十世紀型の大量生産、大量消費社会のマス文化による地球破壊から転換を図るべく、改めて環境と調和する自転車の利点に着目したい。環境意識の高い欧州では自転車文化が急速に普及しているが、政府も平成三十年に、自転車活用推進計画を閣議決定した。健康に優れて、交通渋滞を起こさない、災害時の活用が期待できる、交通死亡事故が減少するなどなどメリットを活かして、地球環境問題に貢献するため、自転車との共生社会を目指したい。

原発現実主義者だが、そう遠くない将来、人類の叡智の結集と不断の努力のもと、人類の環境意識が高まれば、原発に頼らずとも、今後の次世代の技術革新とイノベーションにより、再生可能エネルギーを中心とした気候変動対策、地球温暖化問題の解決に向かって、SDGsの達成の可能性の模索に期待している。私もまた、できることから日々の環境問題に対する意識を向上させていきたいと考えている。

聖書の創世記の天地創造が、人類は科学の手で核を再現し、原爆開発に始まる核科学史において、IAEA国際原子力機関によって、核を支配、管理し、ITER国際核融合に収斂する、核の新たなステージを踏む、人類はホモ・サピエンスから、神人類ホモ・デウスへと進化を遂げる試金石を試されている。

國分功一郎氏は、「原子力時代における哲学」の著書でこう問うている。原子力のコストは再生可能エネルギーよりも高いのではないか。そのうえで、それなら原子力は安けれさえすれば使っていいのかについて論じている。

そのため、近代までの人間が支配していた自然科学の探究と、近現代からの人間の支配をも破壊する宇宙科学への変貌に警鐘を鳴らしている。

ガリレオは望遠鏡で宇宙を観察し地動説を唱え、カトリック教会から断罪された。それまで、精神と肉体の眼で自然界を観察していた、古代ギリシャからの伝統が、望遠鏡という道具、技術によって自然界を観察、認識することで、言わばガリレオが宇宙の真理を「民主化」した。そのことで、カトリックの権威は失墜し、人間的能力theoryへの「不信」と科学技術technologyへの「盲信」という近現代特有の時代が始まった。この近現代の始まりこそ、一九五〇年代頃から始まった、旅客機による渡航が普及するのとシンクロするかのように、航空宇宙工学の発展とともに、宇宙開発に対する人々の反応だとアレントは指摘する。つまり、人間の肉体は精神の牢獄であり、地球こそは人間の牢獄である。その縄が取り払われたのだと人々は渇望して、二十世紀から二十一世紀にかけて、我々人類は宇宙開発こそ精神の翼を得たのだと、しのぎを削っているというのである。

アレントはこう言っている。近代の科学は、宇宙的観点から自然を眺め、その結果、自然に対して完全な支配権を獲得した。言い換えれば、人間は自然法則の中に包摂されていた。

この支配権を、「不信」することになったのは、これに対して、今日の科学は、真に「宇宙的な」科学であって、あえて、自然を破壊し、それと共に自然に対する人間の支配権をも破壊するという明白な危険を冒してまで、自然の中に宇宙過程を引き入れている。

この破壊状態を「盲信」している、 と言う。ここで、宇宙過程とは核・原子力のことであり、核全面戦争が生じた場合、人間の支配権は破壊される。 アレントは、核の破壊的側面だけでなく、原子力の創造的側面も有していて、人類が宇宙の森羅万象の法則を解明することで、人類があたかも神になったかの如く錯覚に陥っていると指摘する。 このことが、國分氏が説明しているところである。

しかし、私が指摘したいのは、確かに核兵器は、ファシズムに対する連合国側の懲罰という人類の戦争の緊張状態で生じた。 なおかつ、米ソ冷戦という核開発という東西対立の緊張は続いた。

しかし、そこには米ソ英仏中という核保有国の国際安全保障の担保がある。そのパワーバランスを維持したある種の平和への方向性の提示状態によって、第三次世界大戦、核全面戦争を避けながら、枯渇性資源である石油の代替エネルギーとなりうる、原発の世界的推進、核の民生化が行われているのではないだろうか。

その平和への方向性の提示状態とは、人間の支配権なのか、それともすでに破壊に向かいつつある人間の支配権なのか。

著者は、ハイデッガーを引用して、核・原子力を管理している状態、即ち、核・原子力を管理していかなければならないことこそ、危機的状態だと指摘している。

しかし、核・原子力技術によって人類は神と錯覚するとあるのは、まさに人類が科学技術によって既存の宗教をも凌駕している、人類が不断の努力の賜物により、科学によって解明され既知となった神聖域について、ならば神にとって代わって人類が、科学、人文、哲学、倫理などの叡智を尽くして点検すべき期にまで、我々の科学技術の人類の文明が進歩を遂げている証拠と言えるだろう。まさに、人類が核を支配し、管理することができるのか、ホモ・サピエンスから、ホモ・デウスへとアップグレードする神人類としての試金石を課せられている。

ユバル・ノア・ハラリ氏が著書ホモ・サピエンス全史の中で指摘しているように、人類は、農業革命、工業革命を経て、さらに、サイバー空間に加えて、宇宙空間の商業市場が急拡大を遂げる中、情報革命、宇宙革命に挑戦することで、ホモ・デウス、神人類に進化を遂げるのだと。 道具(望遠鏡)technologyばかり発達、発展、進歩する今日だからこそ、道具を観る眼theoryを、自分流にいえば哲学を超越する科学的解析を、養っていく必要が不可欠だということである。

それは、國分氏に反論するとするならば、サイエンス科学を掌握する哲学こそが必要だということである。現在のイスラエルの空爆と、それに対するパレスチナのイスラム原理主義ハマスの応酬の戦争の泥沼化にみられるように、人類の既存の宗教紛争、宗教戦争に終止符を打つためにも、人類の科学の普遍的価値観の浸透を図らなければならない。 二十一世紀の科学技術であるAI人工知能、自動運転、核・原子力、宇宙旅行、宇宙開発、宇宙進出、宇宙コロニーの創出の普及によって、人類観、世界観、宇宙観について人類に覚醒を興し、科学の森羅万象の法則を明らかにすることは、既に二十世紀に入ってから、アインシュタインの相対論と量子力学の発展によって私たちの常識が覆っていることからも、科学の合理的な考え方を普及させ、人類を迷信や偏見から解放して、宇宙や生命の神秘を解き明かすことが、従来の三大宗教の信仰理念に代替して、真に人類が正義を獲得し、その繁栄を享受することに叶うと私は考える。約百年前、アインシュタインの頭脳を戦慄させた現代理論核物理学を、今もう一度、自分の頭脳を震撼させることで、二十一世紀の先端核融合技術の青写真を蘇らせたい。

科学とはまさに、人類の精神の栄光に他ならないのである。ならば、人類はその栄冠に向かって、環境汚染や経済格差といった科学の副作用を克服して、文明を前に進めるべきではないか。科学とは人類の知の営みの根源であり、その存在自体が証なのである。核融合こそ新エネルギーとなり、宇宙空間へと経済活動領域を拡大して、名実ともに地球外生物ETに進化を遂げ、宇宙コロニーを創造する二十二世紀の新人類文明に、人類の叡智の結集をみるのだ。

環境破壊が進む地球環境の保全に、喫緊性をもって取り組む必要があると同時に、地球環境の限界性も考慮に入れた上で、人類が地球にとどまらず、また宇宙環境にも適応できるように、宇宙開発、宇宙進出、宇宙植民を進めていくためにも、地球環境を最大限活用しつつ、宇宙開発との両立を図る、我々の文明を切り拓くべきときに到来していると言えよう。

核反応こそが、宇宙の星の生成と最期を決定する要因に他ならないのだ。確かに、核反応が起こす結果は、地上にいる人類にとっては甚大な事態だが、物理現象としては当たり前の事であり、核反応に対する過剰反応は、かえって誤解を招くものと考える。 むしろ、自分もまた星から生まれたと解釈できるように、自分の最後は、宇宙のガスとなり、そしてまた、新たな星として生まれ変わる運命を辿ることこそが、他ならぬ古代インド哲学が諭すブラーフマン宇宙とアートマン自我の理解と実践といって良いであろう。自分の涅槃は、科学を信奉するぼくにとっては、まさに宇宙との合掌なのだ。

星の核反応を上回る現象があるとすれば、ブラックホールのような極大電磁場における反重力波のようなことが考えられる。私は科学を信奉するひとりとして、科学の栄光を追求して、その栄冠を勝ち取りたい。同時に今日の地球温暖化の問題は、科学技術そのものにあるというよりかは、自然科学や科学技術が、その時代、時代の社会の要請に応じて淘汰されていくように、長期的に見て科学技術の開発をどのように進めていくべきなのか、我々の民主主義社会、資本主義社会が決定を下す、その動機付け、インセンティブ誘因を導き出す経済学の手にかかっていると大守隆氏は指摘している。私もまた、自分の後生を環境エネルギー経済学に著述活動を通じて捧げてみたいと思う。それと共に、科学(独sein:である)は、宗教(独sollen:べきである)ではないのか、反駁があったので是非検討を加えてみたい。

最も尊敬する人 李氏朝鮮王朝第四代王位世宗大王(永年にわたり、シビリアンコントロールをもたらした父として、高麗王朝が仏教国だったのに対して朝鮮王朝が儒教国であるにも関わらず、東方礼儀の国と讃えられる朝鮮を率いた世宗は、厚く仏教を信奉しながら、渾身の力で当世一流の天文学は、後世の現代物理学の発展に先見の明があったと言えるかもしれない。儒教や、後の室町時代に立花として確立された華道の、陰陽五行説から影響を与えた、天地人観の宇宙哲学と宇宙科学を備えたハングルを創生して、また倭寇対策にも対処して、茶の湯の文化に欠かせない先端陶磁器技術を日本に伝播したその文民政治は、中世、近世の日本の安全保障にも寄与した。晩年に、吉永慶太や高野厚との親交に加えて、文鉉伊と無ニの親友になれたことは、自分の名の信が五行説から友を表すことからも、それを裏付けているのかもしれない。

家元池坊華道会 小林 信司

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