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12-1.カウンセリング,そしてアサーショントレーニング

(特集 心理職ライフデザイン:平木典子先生に聴く)
平木典子(IPI統合的心理療法研究所顧問)
Interviewed by 下山晴彦(東京大学教授/臨床心理iNEXT代表)
Clinical Psychology Magazine "iNEXT", No.12

1.心理職は,どのように自分の人生をデザインするのか

どう生きるのかは,どう働くのかと重なる。そのため「ライフキャリア」といった言葉もある。しかし,働くだけが人生ではない。社会のデジタル化,グローバル化が進み,働き方改革が唱えられ,さらにはコロナ禍が長期化し,テレワークが進んだ。ポストコロナの時代には,確実に人々の働き方は多様化してくる。

このように働き方が変わる中で,自分の人生をどのようにデザインするのかという意味で,「ライフデザイン」という語が使われるようになっている。そこでは,キャリア(仕事)は,人生をデザインする上で重要な要素とはなるが,人生そのものではない。では,心理職は,どのように自分の人生をデザインするのだろうか

心理職の多くは,国家資格である公認心理師を取得する。国家資格を得ることは,どのような意味があるのだろうか。残念ながら,公認心理師になったからといって,今のところは,心理職の働き口が大幅に増えたわけでも,所得額が増えたわけでもない。
参考:https://note.com/piyoketa/n/n4c15a940fb73

しかし,資格を取得することで,専門職としてのキャリア意識が高まったということはあるだろう。公認心理師は,「保健医療」,「福祉」,「教育」,「司法・犯罪」,「産業・労働」の5分野の汎用資格であると明確に定義されている。そのため,どのような分野で自身の専門職としてキャリアを発展させていくのかを意識する機会は増えたと思われる。

臨床心理iNEXTでは,専門職としてのキャリアも含めて,心理職のライフデザインの支援を重要テーマとしている。そこで,臨床心理マガジン12号では,『ライフデザイン・カウンセリングの入門から実践へ』(遠見書房,2020)http://tomishobo.com/catalog/ca107.html の編者である平木典子先生に,ご自身のキャリアを含めてライフデザインについてお話を伺った。

インタビューは,2020年10月13日に実施した。インタビュワーは下山が務めた。2時間ほどのインタビュワーの内容を3回分に分割して記事とした。第1回である今回の記事については,石川千春(東京大学博士課程)が記録作成を担当した。

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2.偶然,「カウンセリング」を知る

──最初に,先生がカウンセリングを学び始めたところからお話しください。

私は,1960年代のはじめに津田塾大学を卒業して,文部省の研究所に1年間勤めていた。でも,その研究所の英語の仕事がそれほど面白くなかった。津田塾の学生部の部長だった先生が,私の英文学の指導教授だったので,遊びに行って話をしていたら,「来年,学生部の人が一人辞めるので,あなた帰ってこない?」と言われた。それで母校の学生部に勤めた。学生のことを考えるのは嫌いではなかったし,大学にいれば自分が新たにやりたいことが何か見つかるかもしれないと思った。

1950年代のはじめに,アメリカの教育審議会が日本の民主主義教育の奨励のために,つまり民主化教育を日本に持ってくるために,教育使節団を派遣した。その教育使節団というのが,東大,京大,九大などで,かなり大々的なセミナーをやったりして,そこで心理学者と教育学者とが様々な民主主義教育と,自分の国での様々な教育のことを話すセミナーを続けていた。その報告書が学生部にあったので読んだら,それは『学生助育総論』という本であった。そういう名前のついた活動報告書の中で,アメリカでは小学校の頃から,職業教育というものを考えているとあった。

自分の人生をどのように生きるかを考えるために,将来どういう職業に就くかなどを考えるプログラムがアメリカの学校にはあって,そこにかかわっている人をカウンセラーと呼ぶと書いてあった。「ほうー,それを受けていたら,私,こんなに自分の職業に迷わなかった……面白そう」と思った。その正課外進路指導とカウンセラーの役割について書かれている部分を必死に読んだ。

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3.女性として,きちんと生きなくてはと思った

私が育った時代は,進路指導などなく,親の生き方を見たり周りの人から勧められて仕事に就く時代だった。親の生き方というのは,私の父のことを少し話すと,外務省の関係の仕事をしていて,ロシア語と中国語ができたので,満州に行っていた。いったん帰国して母と結婚して,また満州に行き,私は満州で生まれた。それで終戦の翌年,満州から引き揚げた。

父は,引き揚げで日本に帰ってきたら絶対,国家公務員になんかにならない,国がつぶれると仕事も全部飛ぶとか言って,国家公務員という,ある意味一番安定しているかと思われた仕事を辞めた。自分の半生が全部飛んじゃったみたいなことを言っていて,本当にそうだなと思った。私は,自分がきちんと生きるためには自分がしっかりした仕事をしていかないとまずいなと,当時小学校1年生でそう思った。

──先生は,確か幼少期を九州で過ごされた。

九州の水俣。自分のそういう思いと,親の思いを聞いて育った。当時は女ということも意味があって,生きることとか,何をどうするかということを考えなくてはいけないと思った。でもその頃,そんなことを考える術もなかった。英語が好きだから,英語を学べば英語の先生にはなれるかなと思って津田塾大学へ入った。自分の仕事として,英語の先生にはなれると思っていた。ただ,それが生涯の生き方だと思わずに進学した。

卒業して勤めた研究所が面白くなくて辞めて,津田塾大学の学生部に勤めたが,そこで,私は偶然でたくさんのことを発見している。カウンセリングについて知って,「学生部で仕事をするんだったらカウンセリングの勉強をしたほうがいいので留学したい」と学生部長に言ってみたら,なんと「行けば」って言われてしまった(笑)。その先生は英文学の領域でフルブライト奨学生の試験官をしたことがある人だったので,フルブライト奨学金での留学を勧められた。当時1ドル360円で,日本円は200ドルまでしか両替することができず,自費で留学などとても難しい時代だった。資金となる7万2000円は,私の月給の6カ月分だった。

フルブライトを受けて合格した。戦後の日本に来た教育使節団でリーダーをしていたウィリアムソンが報告書に書いた文章を読んで,ウィリアムソンがミネソタ大学にいることがわかった。そこで,カウンセリングや職業教育の勉強をしたいと手紙を書いたら,「来なさい」となった(笑)。直接手紙を書いた後で,「私は心理学を学んでないから,学部から勉強したほうがいいのか?」と聞いたら,「そんなことはない。大学院でやればいい」との返事だった。

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4.最先端のカウンセリングをミネソタ大学で学ぶ

1960年代のアメリカというのは,スクールカウンセラーの養成が始まったばかりだったこともあって,教育心理学の大学院には,学部の専攻が違う院生が多く,化学や国文学が専攻だった人など,さまざまだった。ミネソタ大学はキャリア・カウセラー養成に優れているということで,アメリカ全土から学生が集まっていた。つまり,大学院に入って,いきなり心理学を勉強する教員などの社会人経験者がかなりいた。ウィリアムソンは北米では人気のあるキャリア・カウンセリングのリーダーの一人だったことを彼らは知っていた。

後に,ロジャーズを知っている日本の人から,「なぜ,ロジャーズのところじゃなくて,ウィリアムソンのところに行ったのか」と言われた。私は,自分の進路選択のプロセスでウィリアムソンに出会っているため,ロジャーズはまたどこかで勉強すればいいと思っていた。むしろ,キャリアの支援としてのカウンセリングに飛びついたというところがある。

ウィリアムソンという人を1冊の本だけで選んだのは冒険だった。しかし,それは間違いではなかった。彼はまさにキャリアをvocationという言葉でも説明し,「生き方の支援としてのカウンセリング」を強調していた。vocationとは,「天与の職務」という意味。彼は,”Vocational Counseling”という本を書いていたが,天与の職務を一人ひとりがきちんと選んで生きることが,一人ひとりが幸せに生きることだという理念のもとで,vocational counselingを追求してきた心理学者だった。

人間は,天職を生きる権利があるはずだというのが,ウィリアムソンの主張であり,天職をどのように人々が見つけていくかっていうことは,vocational counselingのオリジナルな考え方。それは北米では,パーソンズという人が1900年代に考えたことだった。私がウィリアムソンのところでvocational counselingを学んだのは,それからすでに50年以上経っていたので,その頃にはその伝統を受け継いだ方法論も確立していた。ミネソタ大学は,MMPIとストロングのVocational Interest テストの版権を持っている大学でもあったから,科学的に職業を探す支援ということで,キャリア・カウンセリングのメッカでもあった。

ウィリアムソンは,「カウンセリングとは,誰もが天職を生きるという大きな傘下で,それぞれの人たちの潜在能力の発達を促進するという観点から,心理的な援助をすること」と考えていた。カウンセリングにおいて心理的外傷体験を癒すということも,その人が天職を生きるための支援であり,潜在能力の開発,キャリア探索は全てつながっていると語っていた。大人の経験と勘で職業を決めていた当時,私は,心から「ああ,ここへ来て良かった」と思ったのを覚えている。したがって,私にとってカウンセリングという支援は,言わば癒しと潜在能力の開発と天職の発見の3つを統合したものであった。同級生たちは,修士課程を修了すると各州でスクールカウンセラーの資格を取得し,カウンセラーになっていった。

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5.帰国して立教大学で学生相談を担当する

──スクールカウンセラーを経験したのですか?

それは体験しなかった。修士の2年目に実習に入るが,日本に帰った時のことを考えていたので,大学生のカウンセリングを体験した方がよいと考え,大学の女子寮のカウンセラーのポジションをもらった。そこには1,2年生が多かったので,専攻の選択を含めた進路の相談が多かった。

同級生たちはアメリカの全国に散らばってスクールカウンセラーの仕事をしていたが,私は半年だけ在籍を延長するために修論の提出を伸ばした。修論は,アメリカで生まれたカウンセリングを日本でどのように根付かせていくかということを模索したテーマだった。1964年に日本に帰って,津田塾大学に戻った。そしたら,たまたま学生部長の代理で,宿泊で行われる全国私立大学学生部課長会議に参加することになった。その会議では,1970年のいわゆる「大学紛争」とか「闘争」と呼ばれる時代の少し前の会議だったこともあり,そのような学生の動きへの警戒と対策についての話し合いがされていた。

──ちょうど学生運動が始まろうとしていた時代でしたね。

代理で出席した私は自分が発言することなど考えず,全体会議に出席していた。ところが,学生部課長たちがテーマにして最も熱を込めて話していたことは,学生を排除し,動きをつぶすこと,私がミネソタ大学で学んだこととは全く相反することだった。つまり,学生部の理念は,学生のもてる潜在能力をいかにのびのびと伸ばすか,その人らしく育てるかということではないのかっていうことを学んできたのに……?と思った(笑)。いかに左翼系の思想をもつ学生を排除するかという議論が沸騰していくにしたがって,だんだん気持ちが収まらなくなってきた(笑)。その会議の終わり頃,「ちょっといいですか?」と手を挙げて,「学生運動している人をどうするかっていう話をしているが,学生部として,そうじゃない学生をどうするかっていう話は,これからするのでしょうか」と質問をした。その私の質問について関心を持ってくれたのが,立教大学の学生部の部長と3人の課長だった。

「どこからそのようなことを考えるようになったのか」って聞かれたので,「実は私は留学から帰ってきてまだ2年しか経ってなくて,ウィリアムソンのところで学んできた」という話をした。そしたら,その話をもう少し聞かせてくれないかという話になり,その秋に2回,立教大学の学生部に行って,部課長に,私がどんな勉強をしてきたかを話した。資料もずいぶん学生部にあげて,これでその話は終わったと思っていたら,「年末になって,立教大学のカウンセラーが来年の3月に辞めるから,あなた来ないか」と言われた。そんな偶然が重なって,立教大学で学生相談を担当することになった。

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6.アサーショントレーニングとの偶然の出会い

──私が先生に最初にお会いしたのは,学生相談をされているときだった。その頃,先生は,ロジャーズのクライエント中心療法のカウンセリングを日本に導入するリーダーの一人であった佐治守夫先生と,よくご一緒に仕事をされていた。

ロジャーズは,帰国後に勉強したが,1974年にパーソンセンタード・アプローチ(PCA)というコミュニティ活動を始めた。それを聞いて,いつか本人に会いたいと考えていたので,1975年,PCAの夏の2週間の合宿に参加した。そこでコミュニティ規模のエンカウンターを体験して,それも私には大きなインパクトだった。

加えて,2週間の合宿の間にたまたま同席してランチを食べた人達と,その合宿の中で,どんなことに参加し,学んでいるかについて交換し合ったとき,その人達は,アサーションのグループに参加しているということだった。それで,「アサーションっていうのは行動療法としては知っているけど,アサーションのグループって何ですか」と尋ねた。そしたら,「午前中に,学んだことは,雑談などの中で,どう話を切り出すのか,話を盛り上げるにはどうすればいいか,話をさわやかに終えるには,などについて学んだ」と詳しく説明してくれた。そして,実はその人達が参加していたグループの宿題が「昼休みに見知らぬ人の中に入って,その人たちと楽しく,建設的な話をして,別れる」ということだったということだった。

行動療法の一技法としてしか知らなかったアサーションが,一つのトレーニング体系になっていることを知り,これはしっかりと学ばなくてはと思って帰国した。1979年にようやく立教大学のサバティカルが取れて,1年間で,家族療法とアサーションを学ぶために再度渡米し,アサーションが盛んなカリフォルニアに行った。カリフォルニア州立大学サンフランシスコ分校に研究員として籍を置き,大学院の家族療法の授業を聴講しながら,パロアルトの研修所に通って家族療法とアサーショントレーニングを受け,1年間過ごした。

帰国後,日本・精神技術研究所をベースとしてアサーションを日本に紹介した。1982年に小さな会合で,アサーショントレーニングとはこういうものという紹介をして以来,その後,佐治先生と共に開催していたPCAのワークショップなどでも,アサーショントレーニングのインタレスト・グループを作ったというのが,日本での公のトレーニングの始まりだった。

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7.日本の女性のためにアサーショントレーニングを導入した

──日本でクライエント中心療法が広まったことからもわかるように,日本の臨床文化は,積極的に意見を言ったりリーダーシップを取ったりするものではなく,受容的態度が好まれた。ところが,先生は,ある意味で積極的に自己表現をするアサーショントレーニングを日本に導入し,広めた。一見日本の文化と異なるものを導入しようと思われたのは,どうしてですか?

その頃,臨床心理士の資格を取らなくても,立教大学で一生勤められればよいと呑気に思っていた。でも,立教大学で仕事をするためには,学生のためになることをしたいとも考えていた。アメリカだけでなく,日本でも女性や主婦がどんどん社会に出るようになっていた。しかし,まだ男女差がある社会の中で自分のことを,自分なりに表現できるようになっていくことが大切と思った。主張までいかなくてもいいが,自分のことをきちんと言えるとよいと思った。だから,アサーションについては,まず女性が話せるようになるために導入しようと思った。学生がゼミなどでも自分の意見をあまり言えないということもあった。

自分も小さい頃,引っ込み思案で「ここで自ら何かを言う」ことにはかなりの勇気が必要だった。「ちゃんと考えて喋らないと」と思ったりした。だから,アサーションは日本人に必要だと思った。特に女性や主婦,学生にもアサーションが身についていた方がいいだろうと思った。それで,若者と女性たちのためのトレーニングを始めた。すぐに関心を持ってくれたのが,看護師さんだった。看護師さんは,多職種と幅広い年齢層の人々の中で,縁の下の力持ちをしていた。言いたいことは山ほど持っているのに,医者には言わない,患者さまには寄り添って,控え目に物を言い,という状況の中で仕事をしていた。当時,かなり多くの看護師さんが関心を持ってくれた。また,キャビンアテンダントさんも関心を持たれたし,学校の先生もそうだった。

アサーションに関心を持ったのは,圧倒的に女性が多かった。女性のためにアサーションをやるのは,日本ではとても意味があると思った。アグレッシブにならずにアサーティブに,女性がきちんと自分の言いたいことを言えるようになっていくためには,日本的なアサーションが必要だと思った。

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8.アサーションをアグレッションと誤解しない

──日本的アサーションとは,どのようなものでしょうか。

それは,堂々と言わないことです(笑)。現在カウンセリングで重視されている表現で言えば,リフレクション(内省)をしっかりすることでしょう。要するに,「私はこういうふうに思うけど,どうでしょう」と話してみる。アグレッシブに思われないで自分を伝ることでしょうか。日本でアサーションをするときは,それが特に大事ですが,どこでもそうかも……。

カリフォルニアでアサーションを学んでいた期間,ミネソタ大学に遊びに行ったりしていた。そこでは,「アサーショントレーニングなんて,なぜ勉強しに来たの?」と言われた。「そんなものやらなくていい。アサーションって,そんな意味のあるものじゃない」という意見でした。彼らは,アサーションをアグレッションと勘違いしていたようでしたから,なかなか難しい表現法でもあったのでしょう。

日本では,アサーションをアグレッションと勘違いしないことが特に重要となる。アグレッシブに思われないためには,家族療法やナラティヴ・セラピーのリフレクションになるし,交流分析の用語を使うならば“アイ・メッセージをきちんと言う”ということになる。「これは私が思うことなのですが」というニュアンスで,「これは私の考えであって,正しい意見というわけではない」ということを前提にして,しかし,明確に自分の意見を伝えることが大切なのではないかと思う。

──それは,自分の気持ちを内省し,自分が何を感じ,何を考えているかを把握していないとできないということでしょうか。

私は,そういう訓練をすることがとても大切だと思っている。堂々と偉そうに言わないことがポイント。日本でアサーションを伝えるにはどうすればいいかをずっと考えてトレーニングをしてきた。ところが,最近では,アサーショントレーニングを,それとは別の形でやろうとしていることが起きている。日本でも,アサーションをアグレッションと間違えて教えようとしている人が増えてきている。たとえば,「上司に堂々とものが言えるようなること」「相手がノーを言わないようにするには,どう言えばいいか」を学びに訓練に参加する人がいる。

──確かに特に企業などでは,ハラスメントに対抗するためにアグレッシブに自己主張することをアサーションと間違えている人もいるでしょうね。

そうです。それと,丁寧に相手を動かすためにアサーションを活用するといった誤解も出てきている。そこでは,慇懃無礼な表現をしたり,「ご容赦願います」と命令的に言ったりして,アサーションと誤解している。それは,単にパッシブ・アグレッシブ(受動的攻撃性)な態度でしかない。特に企業で女性のアサーショントレーニングをやっている人たちの中には,ご本人自身が慇懃無礼な態度をアサーションとして教え,本人も慇懃無礼である。これはいかんと思って,非主張的な表現をアサーティヴにするだけでなく,トレーニングでアグレッシヴとアサーションの区別を明確にする取り組みをし直さないといけないところにきている。

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