閨秀の画家 平田玉蘊を訪ねて
お久しぶりです。
きょうは平田玉蘊(ひらたぎょくおん)について書こうと思います。
この度、広島県尾道市にある持光寺で行われた玉蘊忌に行ってきました(もう一ヶ月前……)。
近年、再評価され光が当たる機会が多くなった女性の画人たち。玉蘊もそのひとりです。玉蘊は江戸後期に活躍しました。
音読みで「ぎょくうん」と読むのが一般的ですが、地元尾道では「ぎょくおんさん」と呼ばれ親しまれています。
尾道はたくさんの画家たちが訪れ、その景色が描かれた街です。そして映画の街や文学の街としても愛され続けています。そんな尾道は戦前までは商都として栄えていました。玉蘊が活躍した江戸後期には、尾道の商家は成功して財を成すと、玉蘊に絵を描いてもらうことがステイタスであったと言われています。
玉蘊忌は6月18日、玉蘊、そして同じく画家であった父五峯の眠る尾道の持光寺で行われました。
尾道は足利尊氏像などを所有する浄土寺など、歴史ある古寺巡りを楽しむこともできます。
境内には玉蘊のお墓だけでなく、玉蘊の顕彰碑や金毘羅堂があります。金毘羅堂は玉蘊記念室となっており、持光寺が所有する玉蘊の作品たちを楽しむことができます。
法要のあとは三井住友銀行尾道支店を改装したBANKで、玉蘊研究家でありコレクターの奥田先生による公演とコレクション公開。そして書籍出版も……!
玉蘊は様々な絵を残していますが、四条派の八田古秀や父の師であった福原五岳の影響を受けていると言われています。
下の「群蝶図」は寄合描きという複数の画家が同じ主題で同じ紙に筆を振るって完成させた作品です。寄合描きは江戸時代に流行った手法で「魚介尽くし」「きのこ尽くし」などといった作品を現在も見ることができます。これらは画壇の交友関係の一端を伺うことができ、「群蝶図」もまた同様に興味深い作品となっています。
玉蘊25歳頃の作品と推定され、京都のネットワークの中で絵を学んでいたことがわかります。また日本美術史に名を連ねる顔ぶれの中で堂々と二羽の蝶を描き、遜色ない出来であることから京都画壇の中でも認められた女性画家だったことも推察されます。
幕末の志士たちに影響を与えた『日本外史』の著者である頼山陽の恋人として、注目を浴びることが多かった玉蘊。
特に「結婚の約束までした山陽にフラれたが、山陽を追いかけて京都に行った」というエピソードは最近までは「玉蘊といえば」という定番のように語れていたように思います。しかし京都のネットワークの中で絵を学んでいたことを踏まえると、山陽と破局後に京都を訪ねた理由は「頼山陽の恋人」という一面では語り尽くせない画家のような気がしてきます。
玉蘊コレクターであり、地元で研究を続ける奥田先生によれば、玉蘊は「品格の画家」なのだそうです。玉蘊が残した作品の主題の幅から、当時主流であった男性画家と同じように絵の仕事をしたことがわかる、それを「品格」と表されました。
仲町啓子先生によれば、女流画家は女性性が必須であった画家とそうでなかった画家がいるそうです。
例えば、久住守景の娘で狩野探幽の姪孫である清原雪信は、吉原の遊女の小袖等、当時「女性が描くのに相応しい絵」を描き人気作家となりました。雪信の功績はそれだけではありませんが、雪信の画業において女性性が重要であったことは確かでしょう。
女性性について詳しく語ることはわたしの勉強不足もあるので今回は避けますが、男性社会の中で描かれた作品のなかで、「狩野一門の女性が描いた絵」は、当時一定数の顧客の目に魅力的に映ったにちがいありません。
画業における女性性の表出に関して、画家にも作品自体の評価にも関わるものではないとわたしは考えています(参考文献も同様に)。ですがこのことは、男性社会中にあった玉蘊の画家業を再評価するにあたって重要な事項であると考えられます。
そして最後は玉蘊縁の場所へ。
(ちゃんと覚えてないので資料的な根拠があいまいです……すみません……)
玉蘊作品の箱に入っていた大正時代の覚書から玉蘊の家であった福岡屋は現在も住吉神社のある外濱通りあたりで酒造業をしていたことが書いてあったそうです。
玉蘊の生家は尾道市内の土堂にあったことが既にわかっています。尾道の豪商は住吉神社の近くに住居等(お店だったか家だったか曖昧です、すみません)を構えるのが慣例だったとか。
住吉神社にちなんでか、近くの通りは外濱通りと中濱通りと当時は呼ばれていたそうです。
そして尾道浪漫珈琲でごほうびタイムです。
商店街にあるので尾道にいらっしゃった際には、持光寺で玉蘊を観て、尾道浪漫珈琲でコーヒーを飲んでくださいね。
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