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物語

 十代の最後の日にミチは一つの物語を書き始めた。
その物語は高校生の頃から温めていた筋書きで美しい景色とどこまでも広がる夢に溢れていた。明日ミチは大人になる。少し感傷的な気持ちがミチに筆を執らせた。
 この物語が完成したら十代の作品て言ってもいいのかな?
 いたずらっぽく笑う。
 硬い芯の書き味は痛々しくて原稿用紙を虐めるようで好きではない。柔らかい芯の鉛筆で優しい物語を紡ぎ出す。鉛筆削りで芯を削った時の鉛筆の木と芯が合わさって焦げたような匂いもミチは好きだった。小さな光量さえ心躍る夜更かし。

 それからも筆を走らせた物語は十代の頃より濡れたような感性で綴られた。ミチにはそれが少し嫌だった。
 この物語の世界はもっと乾いて突っ張っていた。もっと若い色をしていた。
 そしてなかなか書けないでいるハイライトシーンがあった。
 主人公の少女の眠りの中のシーン。
 夢の中でしか少女にメッセージを伝えられない恋の妖精たちが、朝が近づいて慌てるシーン。
 妖精にとっては現実だが、人間にとっては夢の中だ、というギャップをユーモラスに、しかしそれなりの重心を置いて書き表したかった。
 ミチはやがて実際に恋をした。
 本ものの恋は自分が思っていたよりずいぶん青くて固かった。

 初めての恋は青くて固いままに終わった。
 引出しの奥になんとなくそのままにした恋の物語の原稿。
 悲しみの勢いに任せて破こうとしたが、結局泣きながら折り目をつけずゴミ箱に投げた。
 そして、翌朝また泣きながらゴミ箱から拾い上げて引出しに戻した。
 今ならまだ書ける。
 そう思いなおすが妖精のシーンがどうしてもうまく書けない。もう少しで届きそうだが届かない。妖精たちが本当にからかっているようにふわっと逃げる。

 学校を卒業し銀行に勤めまずまず満ち足りた毎日を過ごしていたミチはまさに「いつの間にか」という言葉が一番相応しい恋をして「いつの間にか」結婚にまで至った。
 夫の実家で暮らすこととなりそれは自分が生まれ育った地域からとてもとても遠いところであった。
 寂しい、と母親は泣いた。父親は黙って新聞を凝視する。
 片づけていた学習机の引出しの隅に心なしか干からびたようになっている原稿用紙を見つけた。
 あれ、なんだろ。
 手に取りゆっくり開く。ああ、懐かしい。掴みどころのない空間に憧れた日があった。鉛筆の芯の匂い。
 出発の朝、スーツケースを締めるその間際に原稿を突っ込んだ。
 お父さん、お母さん、ありがとう。

 ミチは女の子を産んだ。女の子はリカと名付けられた。
 忙しい毎日は聞いていた通りであったが、可愛い服を着せる時にわが子がご機嫌な顔を見せた瞬間など気が和んだ
 ピンクの花畑に妖精が舞っている柄の服を着せている時など昔思い描いた風景がフラッシュバックする。
 恋の妖精たちが少女にメッセージを伝えるシーン。妖精たちがひどく慌てている。
 いったいあのシーンをあの頃の自分はどのように始末をつけるつもりだったのだろうか。
 放置した無責任を棚に上げてその物語を急に読みたくなった。
 原稿をどこにしまったっけ。娘を寝かしつけたあと、タンスや机を探す。
娘の激しい夜泣き。
 カリカリと回り始めたフィルムの妖精のシーンはまた光を落とす。

 行ってきまぁす。
 清楚な制服に似つかわしくない逞しい足音を立て駆けていく娘の後ろ姿を見送った後、読みかけの本を読もうと本棚を探っていると本と本の間に何やら紙の束が挟まっている。
 古い原稿用紙。
 ああ、懐かしい。
 今のリカと同じくらいの年頃にありったけの勝手な想像力を駆使して書き始めたものだ。
 そうそう、この妖精のシーン。
 背景は薄いバラの花びらのようなイメージの色と雲のような景色となっている。
 今の自分ならどう描くだろうか。
 だが、その空想も途中で止める。
 現実的に過ぎる大人の想像で上書きしたくないという気持ちが少し過ぎったのだ。

 リカが大学を卒業し仕事の拠点を海外に求めて日本を離れることとなった。
 飽きたら帰ってくるのよとおどけて言ったが、本人は本人でそこで家族も持ちたいと言っている。
 寂しいから家で見送らせてね。あの日黙って新聞を凝視していた父の背中がふと見えた。
 涙を拭いながらパソコンを開いた。数年前からまた綴り始めた物語がこの中にあるのだ。
 少女の頃の鉛筆の柔らかい芯の筆記はコンピュータのデータに起こし直されて作業が捗るようになっていた。
 完成させていつか娘に見てもらおうと思っていた。
 恋の答えなら私なりにもう判っている。
 だけどそれが判ったからと言ってなんになる。
 そしてこの今となって誰が読む。
 ミチはパソコンを閉じた。

 リカは宣言していた通りに現地の男性と恋に落ち、結婚して女の子をもうけた。
 これについて異論はない。ミチ自身が遠いところに嫁いで母を泣かせた張本人なのだ。
 物語の方はコンピュータを新調する時にバックアップを抜かしてうっかり消去してしまっていた。
 生活に必要な現実的なデータのバックアップは完璧だったがこの物語のことは何か月か経って気がついたくらいだ。

 リカの子どもが小学校に入学するというタイミングで久しぶりに夫婦で娘家族に会いに行くことにした。
 娘家族がいるとは言え初めての海外の旅は落ち着かず大型のスーツケースを二つ買いその二つとも満杯にして出発した。
 到着した空港で娘家族からここに引っ越すつもりかとからかわれたが、別れる時には本当に引っ越したくなるほど別れが辛かった。
 十日間の滞在中一番はしゃぎ、別れる時一番大泣きしたのは、私たちでも孫でも娘でもなく、娘の夫であった。
 また会えるじゃないかと老夫婦は両側から彼の肩をぽんぽんと叩いて空港で手を振った。
 結果的にはその方がよかった。
 この涙もろい人がいなかったら自分たちのあまりに大きな寂しさのやり場に困るところであった。

 まず最初に料理の味つけがおかしくなってきた。明らかに調味料を間違えている。
 夫は妻の異変の原因を確かめるために一緒に健診を受けようと嘘をついてミチの手を引いて病院を訪れた。          
    今の時代は有難い。その症状を病気と捉えた上いい薬がある。
 進行を遅らせていずれ年齢相応だとぼかすくらいまでにはできるよと医師は夫の肩を叩いた。
 まあ、今までと変わらずのんびりと平和に暮すことができるわけだ。
 これまで以上に二人仲良く一緒に座る時間が増えたのだ。
 高台にあるこの家の西向きの居間から夕景がよく見える。
 神様の手品でなければあり得ない色をしていた。

 マミィ、これは何かしら。
 娘が自分の部屋を大掃除していたら古い紙が出てきたという。
 リカがそれを受け取り眺め入る。
 飴色に変色した原稿用紙であった。
 両親が来た時の荷物に紛れていたのだろう。
 そこに書き留めてあったのは几帳面な筆跡で書かれた一つの物語であった。
 紙の感じや書かれている雰囲気から母の若い頃のものでまず間違いない。
 原稿は古いが母の若い頃に空想した恋の世界が豊かな彩色感をもって描かれていた。
 何度も何度も書き直した跡がある。
 日頃本をなかなか読んでくれない娘がソファーにかけて真剣に読んでいる。

 ミチは時々遠い眼をする。
 何かをしばらく思いめぐらせてはその思いを深めるように目を閉じて、やがて微睡みに入る。
 特に午後の時間はほとんどそんな感じであった。
 ミチが眠りに入るとその時間を夫は食事の支度にあてる。
 妻は何十年もの間、この場所で一人夕食の支度をしたのだ。自分は妻の幸 せな寝顔を見ながらそれができる。
 どこまでいっても自分の方がいいところを全部持っていってしまった。
 夫は幸せそうに寝息をたてる妻に目をやる。
 炊飯器の湯気の音などいくら時代が新しくなってもミチと一緒になったばかりの頃と全く同じだ。
 廊下にかけた古い掛け時計が夕べの刻を打った。
 とても古い時計が少し古い夫婦に今の時を教える。

 ミチの頭の中では淡い桃色や若草色の溶け合った背景の中、妖精たちが騒がしく行き交っている。朝が来る!朝が来る!
 春の陽だまりにいるようなぼんやりとした意識のなかで、ミチは今あの頃の自分に届くところにいる。
 今いるここはあの夢見る頃の私の空想の世界なのだ。
 ミチは口元に指を当てて妖精たちに彼女を起こさないで、と合図した。
教えなくていいのよ。本当は恋がどんな形をしているかなんて。

 結局物語は完成しなかった。

 妖精たちはそれでもいいの?と最初不思議な顔をしたが、やがてにっこり微笑みながら頷いて、ふわりと飛んでいった。
 ミチは少女の頃の自分をいとおしむようにしばらくの間その優しい色の中に佇んでいた。