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光 【ノンフィクション】

もう何十年も昔にさかのぼるが西ジャワ州バンドンで二か月ほどをあるバリの家系のお宅に居候させていただいた。
その家にはバリから一人で来て家事を働きながら高校に通っているという高校生の女の子がいた。
そのお宅の縁戚と聞いていた。

彼女の名前をどうしても思い出せない。

彼女は私が間借りしていた部屋の掃除を学校から帰ってすぐに行ってくれた。
彼女が掃除してくれる間私は邪魔にならないよう部屋を出ていたが打ち解けてくるに従い、部屋の中にいて彼女の仕事ぶりに触れることとなった。
彼女の笑顔と振舞いは私の使わせてもらったその日当たりのよい部屋の雰囲気にとても似合っていた。

なにしろバンドンに入ってまだすぐの頃であったからどこに行くにも玄関から表に出てそこから左に向いたらいいのか右に向いたらいいのかから判らない。
ハガキ一枚買いに行くのにその家の中学生になる息子と彼女のコンビに助けてもらった。
彼女は明るいがはしゃがない。むしろ控えめで言葉数は少なかった。
今思えば私からもっともっと話しかけて彼女の故郷の話を聞かせてもらえばよかった。
何十年も経った今ごろになって、そう思う。
窓から見下ろす現実的な都会の夜景。

ある日、小さな「事件」が起こった。私の持っていた日本の大衆雑誌に何者かが勝手に切り抜きを入れたのだ。
切り抜かれた位置から切り抜きは男性を刺激する写真であった。
中学生の息子の仕業ではないかと直感し彼一人を部屋に呼んだ。
彼はまだ私の説明が終わらないうちに否定し、「彼女」がやった、と主張した。
わかった。君を信じたい。彼女をここに連れて来なさい。
そう言うと、彼は目を反らし凍りついた。
だまっていては僕たちに本当のことが見えないよ。
本当のことを言ってくれ。
嘘はついてはいけないよ。
一つの嘘は複数の周りの人を傷つけて、最後に自分自身を最も大きく傷つけるのだよ。
結局彼は何も語ってくれなかった。

その頃から彼の彼女に対する態度が明らかによそよそしくなった。
私が彼女に確認したのかと勘繰って不安に陥っているのかも知れない。
あるいは、彼女への後ろめたい気持ちから接しにくくなってしまったのかも知れない。
こんな些細なことでいちいち指摘をして、私がこの街に来なければそのままであったはずの二人の間柄を壊してしまったのか。
人さまの国でこんなにお世話になりながら何様のつもりだ。
そして何の罪もない彼女にもつまらない思いをさせているのではないだろうか。
自分を責めたがそれをうまく解決できるほどこの国の言葉もこの国の人のことも何も解っていなかった。

彼女はバリの陽射しに似て温かく明るい。
用事を言いつけられるのを喜んでいるかのように何か頼まれると笑顔を見せる。
明るい午後の光を背景にして生き生きと働く。

学校を卒業したらバリに帰るのか?
はい帰ります。帰って仕事を見つけて働きます。
そうか、頑張ってくれ。あなたはきっといい大人になる。
一瞬きょとんとするが意味が解って、覚悟を見せるように口を結んで頷く。

ご家族の支えのお蔭があって私のバンドン生活の滑り出しも順調に進み、この家を出ることになった。
この日当たりのよい部屋を片付けていると少し寂しい気もするが、その前日に一つ嬉しいことがあった。
息子と女の子にお願いをしてここに来たばかりの頃のように外に連れ出して、また買い物を手伝ってもらった。
その帰り道二人にお礼をさせてよと路地の途中にあるドリンクショップに入りカウンターに三人並んでオレンジジュースを飲む。
二人はまた元の通りの無邪気なやり取りを私に見せてくれた。
この三人が揃った最後のシーンである。
この最後の日に二人は私に何十年たっても忘れられない思い出をプレゼントしてくれたのである。
その日の午後の光も切なくなるほど優しい光であった。

きれいな仕事ぶりの女の子であった。
私の使っていた部屋を、私のために一生懸命丁寧に磨いてくれた。
そんなことを何十年も経った今なぜかふと思い出した。
窓から見下ろす現実的な都会の夜景。
もっともっと話しかけて彼女の故郷の話を聞かせてもらえばよかった。

(過去のnote投稿作品を一部仕上げ直して再掲するものです(三木))