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生きることは義務である

人間は、「楽しみのために生きているのではない」

また、「楽しみのために生きてはならない」

ナチ強制所を生き延びた精神科医
ヴィクトール・フランクルは、こう
喝破している。

死刑囚が、処刑の数時間前に、
最後の食事の献立を好きなように
考えて良いと言われたとする。

しかし、この男にとって、
ほんの数時間後に、死体になる
運命のこの有機体の胃の中に、
美味しい食べ物をつめこもうと、
つめこむまいと、まったく
どうでもいいことなのである。

それゆえ、どんな申し出も
はねつけるのである。

すべての生は、死に面している。
そして、この男が、考えている
ことが、正しいとすると、
すべての人の一生も無意味だという
こととなる。

もし私たちが、できるかぎり
たくさんの、できるかぎり大きな
楽しみを求め、楽しみを得ること
だけを追及し、他に何も追及しないなら、楽しみそれ自体は、生きて
いる意味を与えることができる
ようなものではないのである。

それゆえ、楽しみがないからと
いって、生きる意味がなくなりは
しない。

では、そもそも「生きることとは
何なのか?」

ということとなる。

私は眠り夢みる
生きることが喜びだったらと
私は目覚め気づく
生きることは義務だと
私は働く。すると、ごらん
義務は喜びだった
                                    ~タゴール~

つまるところ、生きるということは、ある意味義務であり、たった一つの
重大な責務なのである。

喜びや幸せは、タゴールの詩で、
義務と言われるものを果たした
結果に過ぎないのである。

「生きることは、人生から
課された義務であり、責任である」

これまでの人生で、見聞きしてきた
ことを鑑みると、この視点こそが、
真理であり、しっくりゆくと、
感じられるわけである。


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