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生きる意味

不思議なことだ。油が切れれば、ランプの炎は、消えてしまうが、
人生は決してそうではない。

歓びもなければ、明日への希望も
ない。

そんな人生でも、人は生き続けるのだ。人間は、辛抱づよく、苦しみに
耐える力を備えた生き物だ。
ときには、自然が与えてくれた
以上に強靭な力を発揮する。

多くの者は、じっと我慢して
文句ひとつも口にしない。
彼らはそれが己れの運命と
観念し、別の人生を歩むことなど、
考えもしない。

どんなに苦しい運命を前にしても、
決してひるむことなく、与えられた
暗い道を黙々と歩み続ける。

行く先には、ただ墓場が、死が、
あるばかり。そんな道をどうして歩むのだろう。そんな哀れな人生にいったいなんの意味があるのか。

彼らは、その意味を知ろうとも
しない。

~ヴァッサーマン「お守り」~より

教師時代の話しである。

「なぜ学校に行かねばならないの」
と問われ、答えられなかったので
ある。

「なぜ大人になったら働かねば
ならないの」と問われ、
答えられなかったのである。

「なぜ勉強しなければならないの」
と問われ、答えられなかったので
ある。

そして、「なぜ生きるの」と問われ、答えられなかったのである。

すべて、人生の意味を考えたことがなかったからである。

だから、教師になり、生まれて初めて「生きる意味」を考えはじめたわけである。

あらためて思うに、人は、「愛を学ぶために」生きると考えるわけである。

人は、「愛を知るために」生きるわけである。

つまるところ、愛燦々と降り注がれた自分という存在に気づくために生きると考えるわけである。

愛を知っているから、自分の限界を
超え、挑むことができるのである。

愛を知っているから、失意どん底、
絶体絶命の時に、感謝すべきことに
気づくことができるのである。

愛を知れば、知るほど、
「I 」=「自分」を知ることが
できるのである。

そして、愛を知れば知るほど、
自らの使命、役割、そして、自分が、「何のために生まれてきたのか」

これに気づくことができるのである。

だから、希望がなく、歓びもない。
絶望の日々が、続けども、
人は、生き続けることができるので
ある。そこに生きる意味があり、
生きる価値があるのである。

なぜならば、人生の辛酸をなめた時にしか気づくことができない。

そのような愛があり、感謝すべき
大事なことが、存在するからである。

そして、それらが、新たな人生の
土台となり、新たな自分に出逢うことができるからである。

生きるということは、すなわち
愛を学ぶことであり、それは、
とりもなおさず、人生の奥深さ、
摩訶不思議を学ぶことなのである。

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