『罪と罰』について

 新潮文庫(工藤精一郎訳)で、下巻の半分まで読みました。3回目? の再読になります。読んで気づいたことをメモとして書いていきます。

 物語が主人公・ラスコーリニコフの行動描写からはじまるため、読者は物語世界に入り込めやすいです。(ドストエフスキーの二つの長編、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』は、都市やそこにに住んでいる人々の描写から始まります)。

 会話している人物たちのところへ、べつの作中人物が「都合よく」登場します。この手法の目的の一つは、物語を面白くするためだと思います。

 作中に何回も、「ラスコーリニコフがあとになって、このときのことを思い返すと~」と描写されます。物語世界(一八六五年七月)より、さらに時間が進んだ「第二の物語時間」が存在していると思います。ラスコーリニコフが語り手に、自分の過去を話している「時」が第二の物語時間です。語り手は、服役中か刑期を終えたラスコーリニコフから、彼の昔話を聴いたのではないでしょうか? この手法の第一の目的は、ラスコーリニコフが❝生活❞に飛び込み、生き続けていることを暗示するためだと思います。

しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間がしだいに更生していくものがたり、その人間がしだいに生まれ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、――このものがたりはこれで終わった。

以上のように物語の幕は降ろされています。著者は、ラスコーリニコフが生き続けている「仕掛け」を作ったのでしょう。

『罪と罰』を読み終えたら、もっとメモを書いていきます。


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