【映画評】ガルシアの首

執筆者 茂野介里

ドン・シーゲルの一番弟子にしてアメリカンニューシネマを代表する監督と言われているサム・ペキンパー。今回取り上げるのは、彼の作品であり、特に北野武監督に影響を与えた『ガルシアの首』であります。本作は、中年男が主人公。親友であるガルシアの首に賞金がかけられる。その首を探しに、愛人と、もう死んでいるガルシアの墓を掘りにいくというお話。

本作の特徴的な点はスローモーションとクロスカッティングにあります。ペキンパーの暴力描写は、暴力でありながらも叙情性がある。これは物語にくっついているからでもあるんですが、それ以上に彼の技能がそれを作っています。撃たれる側をスローモーションで映し、倒れるところを全て映さず、即座に撃った側に切り返す。これによって、荒々しくも美しい銃撃戦のイマージュを可能にしてんですな。ペキンパーの叙情性が特徴的であると同時に特異なのは、この恣意性とともに、正義以上に法や社会を意識せざるをえない点にあります。西部劇の主人公といえば、あくまで神話的で、超越的な存在でありますが(それを象徴していたのがジョン・ウェイン)、彼の場合はそれをしない。むしろ契約の中で生きる人々。そして、これを無法者の観点と契約者の観点。二つの立場から描くことで、物語を促進させるのです。例えば『ワイルドバンチ』では、ワイルドバンチに追われる側は、正しく鉄道会社のために銃をとり、いっけん契約からも自由であるワイルドバンチは友情という抽象的な契約によって、足をすくわれ、メキシコ軍は、彼ら自由人に重くのしかかる契約者なのです。あるいは『ビリー・ザ・キッド』では、法のもとに生きるリアリストパッドと、ビリー・ザ・キッドが対比されます。『ガルシアの首』においても、愛人による「自由の誘惑」よりも仕事をとる。この点で、サム・ペキンパーはアメリカンニューシネマにありがちな、単純明快な反=ビルドゥックスロマンでもないんですね。アメリカンニューシネマでは、自由を追い求める若者が社会において敗北する過程が描かれます。この点はサム・ペキンパーもかなり近い所を持っている。だけども彼の場合は、社会に出たとしても敗北は続けられ、その敗北がカタルシスに落とされる事なく、哀愁のごときもの程度で終わってしまうのです。もしもガルシアの首を掘り返すという依頼を捨て去り、逃走すれば美しいロマンか。もしくは映画的にはそれでもギャングによって始末されるという反ビルドゥックスロマンにでもなっていただろう。しかし、今作が選ぶのはどちらでもない。ガルシアの首を届けた所でもはや、謝礼も出ない。しかもガルシアの首はやっと手に入れた所で、奪われてしまう。さらに賞金を元手に一緒に暮らそうとしていた愛人も死ぬ。それでもガルシアの首を取り返し、意味なく届けようとする姿は、正しく不毛でしかない。自分が老いていくのをわかっていてもなお、律儀に仕事をこなす中年男の姿に他なりません。

ペキンパーの出題は「カタルシス無き」不自由な世界を生きるおっさんたちの姿なんですね。

先にも言ったように、いささか作為的な絵作りを行うペキンパーの作家性がそれをもっとも評しているでしょう。ジョン・ウェインが活躍した豊かで素朴な時代も終わり、自分が撮影所から離れていた頃にはアメリカンニューシネマという若者たちの表現が台頭してくる。そんな中で、明らかにペキンパーは時代遅れの浦島太郎になっていた。それでも西部劇的なフォーマットを「遅れてきた西部劇作家」としてかきつづけてきたのがペキンパーなんです。昔のように大自然と格好いい保安官をとれば西部劇になる時代はとうに終わり、時代遅れになる中で、いささか自由をかいた西部劇の英雄たち。社会に束縛される西部劇をとり続けたわけですね。本作は北野武がオールタイムベストにあげていまして、これはおそらくですが、武監督のヤクザものにかなり影響を与えていると私は考えます『ソナチネ』『アウトレイジ』『その男、凶暴につき』これらの作品では、ヤクザものであるにもかかわらず、個人の情念が希薄で、常に組から冷遇される武闘派ヤクザが出てきます。旨いところは上に持って行かれ、危ない仕事だけ回される。組の中で生きていくから仕事はやるのだが、なにもカタルシスが生まれない。アウトレイジの主人公大友の「貧乏くじばっかりだよ」がそれをよくあらわしているでしょう。組という社会的束縛から離れた正義を実行する高倉健や鶴田浩二とは違い、そのような正義の闊達さがいささかもないという点は、サム・ペキンパーと北野武をつなげる点だと思われます。
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