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雫と露

「りかちゃんはほんと可愛いねぇ」
愛猫家が飼い猫をみるような眼で、私と対角線の位置に座る男の子が言った。その上座に座っている女の子が、今流行りのy2kファッションを身に纏っていることから、きっと私と同じくらいの歳なんだろう。盗み聞き(というほどではないが)に若干の後ろめたさを感じて、「座席数はざっと数えて13、席間は横向きで通るのがやっとな40cmのこじんまりとした喫茶店だ、仕方ないじゃないか。」と脳内裁判官に正当化してみせる。気だるげに相槌を打つ様子から、「可愛い」という言葉がりかちゃんの耳にたこをつくりあげたのはまず間違いないだろう。
可愛い、か。最後に言われたのはいつだろう。私には3年来の恋人がいるのに、全く思い出せない。虚しさへの必死の抵抗で、彼とのメッセージ履歴を遡ってみたが、最後はまさかの去年の春だった。有効期限切れの言葉は、当時の歓喜の効力をすっかり失い、流れた歳月の長さが加勢して私の心を鋭い矢で突いてきた。この矢は神話に出てくるキューピッドの愛の矢とか、決してそういった類のものではない。例えるなら、応仁の乱で使用された武器の方の矢だ。なんとも虚しい。窓の外に目をやると、さっきまで青一色だった空が、薄いねずみ色の服に着替えて小さな雲のかたまりたちを引き連れていた。傘はない。一目惚れしたセーターを今日下ろしたばかりだというのに。大人ぶって頼んだコーヒーがいっそう苦く感じられた。
「1週間後は3ヶ月と3週間3日記念日だね!」
この言葉が、私はこの男女の恋物語のエキストラの1人でしかないのだと思い知らせた。「スポットライトの当たらないエキストラだって、喫茶店の前を足早に通り過ぎるあのサラリーマンだって一人一つの人生を抱えて生きているんだぞ。」という私の主張もやはり脳内裁判官にしか届かないみたいだ。それはそうとして、3ヶ月と3週間3日記念日ってなんだよ。あと4日待って4ヶ月記念日で良いじゃないか!と反論したい気持ちを抑えて、日々の忙しさで忘却されていた恋人と出会った頃の記憶を呼び起こしてみる。

「先輩って可愛いよね、絶対モテるでしょ」
初めて彼に話しかけられたのは、サークルの飲み会だった。後輩にしては小生意気に慣れた口調で、初めは警戒していたものの、共通の趣味で盛り上がり、恋人になるまで時間はかからなかった。私たちが恋人になってから初めて2人揃って参加した飲み会を、彼は「披露宴だ」といたずらに笑っていたのを思い出す。恒例の山手線ゲーム「濁点のつかない駅名」は、サークルの仲間たちによって「お互いの好きなところ10個」にすり替えられていた。私は彼の頼もしいところを挙げ、彼はというと、可愛いところと少し誇らしげに答えていた。

私だって、喫茶店の隣のカップルのように、カップルをしていたんだ。押し入れの奥で埃をかぶった昔お気に入りだったぬいぐるみを思い出して、この身を重ね合わせた。いても立ってもいられなくって、ぬるくなったコーヒーをぐっと飲み干し、40cmの隙間をそっと通り抜けた後、慌ただしく店を飛び出した。頬を伝う雫を袖口で拭いながら、家へまっすぐ走った。家に着く頃には雨も止み、空には七色の橋が掛かっていた。顔はかるく火照り、鼓動の往来はまだ激しかった。私は勢いよくカーテンを開き窓を開け、冷たい風を感じながら、窓とその表面を滑り落ちていく露を見て、シンパシーを覚えた。この窓の露も明日には乾き戻る。私もそうだろう。一時の揺心とお気に入りのぬいぐるみを胸に抱いて、私は眠りについた。

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