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都会にいると悩ましい。服とか髪とか容姿全般。

会社を辞めたら坊主にしようと思っていたが、やめた。

これは自己実現欲求と承認欲求の葛藤のすえ、承認欲求が勝ったからである。

とても残念な話だ。

なぜこんな葛藤をしているのか、そもそもなぜ坊主にしたいのか。

抽象度を上げ、容姿に関する悩みや葛藤を整理したい。

坊主へのあこがれ

坊主のあこがれは、数年前くらいから。

【4年前】

仕事の現実逃避で行った南アフリカでたくさんの坊主ヘアーをしている女性を見かけた。金髪やピンク、様々な色に染めていてとても美しく見惚れた。いつかやってみたいと思った。


【3年前】

日本でも何人か坊主の女性に出会う。黒髪坊主や金髪坊主。日本人であっても美しいと思う気持ちは変わらず、あこがれが強まった。

【去年】

佐渡に移住し、坊主がおおいことなんの。移住者の若者男性で坊主が流行っており(?)、

口々に「人は見た目じゃないという気になる」というので、そんな世界を見てみたいと思った。

去年、坊主にしてみよう、とやりたいことリストに入れた。

そしてその実現は、仕事を辞めた時ではないかとなんとなく思っていた。

仕事を辞めたら坊主にしようと思っていた。

だが・・・

自己実現 対 承認欲求

いま現在、そこそこ受けがいいミディアムショートヘアスタイルでおしゃれを気取っている。


思うことがある。

都会にいると、

他人の目が気になる

かっこよく/かわいく(=いい感じに)いたいと思ってしまう

別に悪いことじゃないと思うけど

自分のしたいが100%できていないもやもやがある。

自分の(容姿の)決断に、他人の思考が影響を受けることが気持ちよくないのである。

褒められたらうれしいけど…

かっこいいね、似合うね、素敵だね、と言われたら、うれしいし、褒めてもらえる状況を維持したいという欲がわいてくる。

だけど、そもそも自分が好きなものや、やりたいことは、自分がやりたいからやるのであって、ひとからどうこう言われる筋合いがない。

誰かが佐渡に行けっていったわけじゃないし、ピースボートに行けといったわけでもない。自分で決めた。

(もちろんいろんな人の話を参考にしたし、支援も求めたりはした。)

自分で決めたい欲」が、強すぎるのか?

そう思うエピソードをあげてみる。

人のおすすめの本や映画など諸々、すぐに享受することはほとんどない。

自分なりのモチベーションが出てきたら、過去のおすすめ情報から自分のタイミングで引っ張り出して享受する。

頑固だなぁと思うし、せっかく自分のためにと言ってくれているんだから素直に享受すればいいのに、と自分でも思う。

でも、自分の思いが十分に湧き上がってない状態で享受したコンテンツは楽しみ切れないし、十分に味わうこともない。と自分で分かっている。から、無理に享受しない。

それくらい自分で決めたい欲が強い。

だから、容姿に関する決断、例えば髪を切る・服を着るなどが、周りの感覚や反応を理由にしていたら、「自分で決めたい欲」が減退して、ストレスになる。

つまり、自分のポリシーをつらくぬ気持ちよさ(自己実現的な欲求?)と、褒められたい喜び(自己承認欲求?)の葛藤の問題である。

自分らしくって、難しい

周囲からの受けのいい容姿と自分のしたい容姿が一致していればこんな悩みはないだろう。

自分の場合、ギャップがある。(みんなそういうもの?)

髪の毛で言えば、坊主にしたい、とても髪の毛を短くしたい。

正直、似合う似合わないはどうでもよくて(というか優先順位が低くて)、

やったことがない体験を通してどう新しくて面白い世界が見えるのか、自分のジェンダーアイデンティティに適合しているか、が大事。

この基準だと、社会的な珍しさ・生きづらさを伴う。
し、単純にかっこいい/かわいいと言われない、受けが良くないと知っている。
(坊主はまだだけど検証しなくてもわかる)

服装は機能的で、必要最低限の個数あればよく、お金もあまりかけたくない。

極端な話、使えれば穴が空いていたって何が問題だ?とさえ思う。

なので、いつも同じ服着てるね、といわれることがある。

この言葉の真意はよくわからないが(服買えないの?楽しまないの?というところか?)、少なくとも同じ服を着ているせいで、違和感を感じさせているということらしい。

都会にいるから?

都会にいるときに、いつもこの葛藤を迫られる。

(なんでもかんでも田舎礼賛!みたいにするのは良くないけど…ついね)

佐渡にいるときは、ありのままでいやすいからともて居心地がよい。

見た目を評価することを言われないし、機能的な見た目をしているほうがむしろ褒められる。

つまり、自分の価値観と周りの価値観があっているので、自己実現も承認欲求も満たされる。

ことごとく、じぶんにあっている土地なんだと思わされる。

もっと深いところに

そういった価値観や趣味の違いだけだろうか。

根本的に「おしゃれに気を遣っている」、「周りに容姿をよく見せたい」と思っていると、思われたくない。という感情がある。

おしゃれだね、と言われると実際恥ずかしい。

「そんなんではないのです、これは母親に着せられていて・・・(昔ね。さすがに今はない。)」「友達が貸してくれていて・・・」などと

他人のおしゃれさを利用しつつも、それは自分の意志ではないですアピールをしてしまっていたし、している。

ルッキズム(外見主義)には積極的に対抗していきたいと思いすぎているからか?

自分はこれまでの長い時間(22歳くらいまで)ダサくあることを目指しすぎて、ダサくいなければならない、という呪いを自分にかけてしまったのか?

考えきれなかったので、いつかわかったら追記したい。

これからどうする

根本的な歪みの解決ができたらいいが、取り急ぎの解決策はどうするか。

周りに受けがよい中で、
自分が良いと思うものをきちんと表現するしかないかな。

(あれ、みんながやってること?)

承認欲求も満たされるし、自己実現もできそう。

ボンボヤージュ⛵️

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