見出し画像

一周まわって気遣いをやめた話




一周だったのかはわからないけど

気を使ったら人が喜んでくれると思い込んで
過ごした数年?十何年?

気づくね〜と言われ出したのはいつからかな


周りが見えてない自分勝手と言われたこともあるから
そんなにすごいよく気づいているわけではなさそうだけど


気をつけて周りの人の表情や言葉や動きを
見ていました

動きで欲しいものがわかった時
その相手とつながるあの感じが、すごく好き


褒められたいという気持ちもあるけど、
何よりも
「居心地が良い」と思ってもらえることが

独りじゃないって思えていたのかも

相手を見ているようで
相手が見ている自分を見ていたのかも



でもこれは悪ことじゃないし、
私は疲れていたわけでは多分ないから

この、エゴの香りのする思いやりも
別にわざわざ封印するつもりはなかった


だけどなんか
歳を重ねるごとに
たくさんの気をめっちゃ使う人たちに会ってきて


気を使われるって
めっちゃ疲れるな


と思ってしまった



気を使われているから私も気を使わなきゃ

私より先に気づいている!頑張らないと

気を使わせないためにはどうしたらいいんだろう

この人楽しんでないんじゃない

居心地悪いんじゃない


こんなことがいつも頭の中で
わっしょいわっしょいしている



あれ・・・
私ももしかして、気を使わせている・・・?

喜んでもらえていると思っていたのに
居心地良いと思っていると思ってたのに



そう思ってからは
なんか気を使うのも、気を使わないのも
なんかぎこちなくて、

あれれ、、、人といるときって
どういうことをしていたらいいんだったっけ・・・

迷宮入りした気分になったよ。


長い長い迷路の中を、

前のやり方を思い出したらいいんだっけ???
新しい方法を見つけたらいいんだっけ??

とぐるぐるぐるぐるぐる考えながら生きていた



ある時に

「愛子ちゃんの優しさは、ありがとうって受け取るだけでいいんだよ」

と面白いおじちゃんに言われた


それを聞いて
迷路にいたはずなのに
なんだかひろ〜い、ちょうど良い温度の
お風呂に入っているような気分になった



ああ、そうか
気を遣ってくれてる人には「ありがとう」って言えば良いのか


そして私がしてた
エゴ臭たっぷりの思いやりも
「困らせたいと思ってやってないんだから、
気づいた時に、思ったようにしていいんだった」
「いやって言われたらごめんねって言えばいいんだった」


そう思えるようになった。


私が気を遣ってくれる人に気を遣っていたのは

ただ目の前の人の優しさを見ることなく
「自分がどう思われているか」を見ていて
居心地がよくなかったんだと




そう気づいてからは

「おかわり欲しいんだろうな〜。今日は疲れているし、相手もまだ飲みたいかわからないから、欲しいって言われたら動こう〜っと」

「帰りたそうだけど、言えないだろうなこの人。私も眠い」「もう眠いんで帰りましょう!」

一緒にいる人がどうしたいかに気づいたら、
自分はどうしたいか考えてから
なるべく自分も相手も喜ぶ選択を願う。そして行動する。(やらないも含めて)

そうすると、エゴの香りはなく
「言いたいことはっきり言う人」
「なんか思ったこと口に出したほうが楽なんじゃないかと思わせてくれる人」
になれるんじゃないかと、気づいたんです


なるべく言いたいことを言うこと

相手をしっかり見ること

受け取ったらお礼を言うこと

自分のために相手のために心地よい関係を願うこと

そうしたら、よーーーく観察して気を回さなくても
心地が良いはず。うんうん。そうそう。


やめたら、前よりもっと
心地よく生きられるようになったし、
愛子らしく生きられる。



これが最近見つけた

私なりの愛




そんで最後に
そんな自分を

「呑気だね」「自己中だね」「周りが見えてないね」

なんて言うやつは、
「じゃあ君は君の正義のために頑張れ!さようなら!」だ!




この記事が参加している募集

私は私のここがすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?